狭くて、光がささない。

細身な自分がひとり通れるだけの道をのこして

押しつぶすようにレンガの壁が左右にそびえる。

 

暗くて、汚い。

汚いところだ。

 

表通りを行き交う人々の声と雑踏が遠く蓄音機のように聞こえる以外は、壊れた排水管から腐った臭いをさせながら時折落とす水滴の音しか聞こえない。

 

沈みゆく泥沼のようなその空間にこつこつと自分の足よりも一回り程大きな革靴の音を不規則に地面に擦り響かせながら歩くと残飯を漁っていたネズミが驚いて道をあけていった。

 


「誰か!捕まえてくれ!スリだ!」

 


蓄音機が吹き飛んだように空間を裂いて震わせた肉声に目を向ければ、遥かレンガ道の先から表通りが見えるそのマッチ1本分程の光に人影が見えた。

 



光りを背に闇に向かってくるのは、恐らく少年だろうと思った。

自分よりほんの少し“小さい”。

 


「誰か!誰かー!」

 


影を追うようにこちらを覗き込む影はきっと財布をスられた貴族なのだろう。贅沢の限りを尽くしたその体では、この闇に滑り込むことはできない。

 


はあ、はあ、と荒い呼吸を隠すことなく響かせる少年は、勝利を確信したところでこちらを向き、ようやく自分に気が付いた。


(公園の大きな噴水ちょうど一つ分だ)と思った距離だったが、彼はスッてきたばかりの財布をぐっと煤の付いた懐に抱き、警戒するように少し腰を落とした。

 

「心配しなくていいって。」

 


まるで元来の友であるかのようによく通るように声をかければ、彼は探るように顔を動かした。

 

「俺もお前とおんなじようなもんだ。そもそもこんなところにいるんだ、わかるだろ。」

 

歳だって、そうは離れてないだろ?と両手をあげてひらひらさせれば、彼は警戒を解いたように体勢を戻した。

そして後ろから尚も響く男の怒号を振り向き、こちらの歩みを許した。

 


「…しつこい男だ…。」

「見つかっちまったのか。」

 

腕一つ分まで近づいて見れば頭一つ分低い彼は一度舌打ちを漏らしてからこちらを見やった。

 


「…そんな格好してるから、てっきり貴族かと。」


 

眉を寄せながら下から上へ上から下へせわしく視線を移動させる彼の瞳がかちりと自分の瞳を捉えた時、思わずふてぶてと口角が上がった。

 



綺麗な水色だった。その綺麗な水色の瞳がかっと開かれた時にはもう遅く、俺は拳を振りぬいていた。

この路地裏にはいくつか横道があるが残念ながら今、彼と俺との間にそんなものはなく

あったとして彼に「逃げる」という選択へ至る時間はなかった。



 

「俺とお前は全然違うよ。」

 


不意の打撃による衝撃で倒れ込んだ少年から分厚く煌びやかな装飾がされた財布をとりながらそう言えば、困惑と痛みと激しい動揺に体を震わせながら俺を仰いだ。

 

「もっと賢く、上手に生きないとな。」

 


闇の中でも輝きのあるそれをついあがってしまう口角の横でひらひらさせ、じゃあな、と踵を返した。

方角は、光へ。

レンガを壊すように眩しく入り込んでくる光に、乱れた髪をなおし歩みを進めれば、どんどん濃く、強くなる光を捉える視界ががくんと揺れ、不自然な重みに右足は地に降ろされた。

ぎりぎりと足首を掴むそれを嫌々に振り向けば 先程の少年が地に這ったまま歯を食いしばりながら喰らいついていたが、

恨めしげに睨むその綺麗な水色の瞳をじいと見下ろした後、反対の足で食い込む手を蹴ると容易にそれは離れた。

小さな呻き声と冷たいコンクリを掻く音に一瞥もくれずに去って行く俺の背を、そこから離れることなくその水色が光で霞んでも追い続けていたのを感じた。

 

冬を匂わせる厚いコートが靡いて汚れた壁にすれたのを唇を曲げて見、鬱陶しげに手ではたいた。足首の汚れは、後でいいだろう。

右手に持った重みににやりと笑いながら俺は光に踏み出した。




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