電極のようなのだ、と思った。

 

 

 

「どうかしたの?アカリちゃん」

 

絶対に起きてないだろうと思った姉は、ベッドの中上半身を起こして青い月明りに本を読んでいた。

何かに似ていると思ったけれど、その一瞬で忘れてしまった。

 

「あ…えっと…」

 

用など、あるようでなかったから。

何か用かと聞かれれば答えに詰まってしまう。

姉の言葉に冷静になってみれば、あたし何してるんだろう、と恥ずかしくなる。ドアを開けた時に添えた左手は行く先をなくして木目と見つめあったまま途方に暮れていた。

 

闇に飲み込まれたような痛いくらいの静寂が恥ずかしくて

しかし、ベッドからはねあがり部屋を飛び出してきた時の心情からすれば、明らかにあたしは安心していた。

先の言葉を何かあったのかととれば、あるいは答えられたかもしれない。

 

「おいで、アカリちゃん」

 

ぱたんと優しく本を閉じる音が静寂に広がり、穏やかな声が耳の中張った膜をぱちんと割った。

顔を上げれば合った目は、とても優しくて

無意識に頷いてしまったあたしは姉のもとに足を運ぶ。

木目が、離れた。

 

入りなよ、と言われるがまま姉の隣に入り込めば、久々に感じた温度。

ふふっと笑った彼女は、きっと珍しくあたしが素直だから笑ったんだろう。

 

「久しぶりだね、こうやって一緒にお布団に入るの」

 

そう言って笑った姉の声がくすぐったい。顔を見ることはさすがに出来ないけれど、きっと姉は今昔と変わらない無邪気な顔で笑ってる。

 

「そう、だね」

 

なんとか紡いだ言葉はなんだか不愛想になってしまって

あぁ、もう、と思う。

いつからあたしはこんなに子供っぽくて、いつから姉はこんなに大人っぽくなったのだろう。

ううん、もしかしたら最初からかもしれない、と。

 

やりきれない気恥ずかしさにもぞりと布団に潜り込めば、手のひらが頭上に舞い降りた。

 

「…」

 

羽が停まるように優しくぽんぽんと頭をなでるそれが懐かしくて嬉しくて、そう思う自分が恥ずかしくて、やっぱりあたしは子供でと思ってしまう。

 

「やめてよ、」

 

思わずはらうように掴んでしまったそれは予想以上に細く、どきりとした。嘘、予想なんてしたこともなかった。

心温が下がったような感覚に固まって、片手に簡単に収まってしまったそれを凝視してしまう。

 

「アカリちゃん?」

 

びく。心臓は単体で動いてくれない。一緒に肩を盛大に跳ね上げたそれを恨めしく思いながら、おずと彼女を向けば、先程の言葉は疑問詞ではなくただの呼びかけだったのだと気付いた。

 

「あ…、なんでもない」

 

ごめん。最初に出るべきだった言葉は出ずに、出なくてもよかった言葉が出る。嫌になる。本当に。こんなあたしすら包み込んでくれるような優しい姉も。本当に、嫌、だったのに。

 

気付かなかった。考えたこともなかった。

 

「なにかあったの?」

 

百合だ、そう思った。突然に思い出した単語は、この部屋に入った時に最初に浮かべたものと完全に一致した。今、目の前で微笑む彼女とも。

 

月下に映える百合。彼女の背の窓から差し込む月光に青白く照らされた姿はまるでそのようだった。

 

「…夢を…みたの」

 

白く光る彼女の髪をみつめながら呟く。

そうだ、あたしはこの質問を望んでいた気がする。

 

「夢?」

「うん…すごく怖い夢…」

 

うん、怖かった。確かにあたしは怖いと思った。

まるで暗闇があたしを飲み込んでしまうような、そんな恐怖だった。

 

「どんな…?」

 

だめ、だめなの、いえない。

言葉の代わりに零れた涙は、びっくりするくらい久々に流したものだった。

止まらない。きっと何年分も詰まってるから。

 

「怖かった、こわかった…!」

「、そっか、怖かったね、でももう大丈夫だよ」

 

ばかみたいに一つの言葉を繰り返すあたしの震える体を、姉はぎゅうと抱きしめた。ぐちゃぐちゃな顔を押し付けても、いい子いい子と頭を撫でてくれる。あぁ、あたしには絶対むり。

 

「お姉ちゃん、嫌、いや、死なないで…!」

 

考えたことも、なかったの。

あなたが死んでしまうなんて。

でも、だから、あたしはこんな馬鹿な夢、と嗤うことができなかった。

だって、知らないから。知らなかったから。

あたしが外に出てる間に家事をして家畜の世話をして花に水をやることがどれだけ大変なんだろうって

考えたこともなかったの。

だから釣りをしたぐらいで貢献したからいいでしょ偉そうに母親顔しないでよなんて馬鹿なことが言えたんだ。

だから、だから、

 

「アカリちゃん」

 

子供みたいに泣き叫ぶあたしに、姉は優しく呼びかけた。

馬鹿みたい、こんな夢を見てやっと、こんなに優しいお姉ちゃんがいなくなるのが怖いと思った。初めて、思った。

 

「大丈夫だよアカリちゃん、ほら、お姉ちゃんはここにいるでしょ?」

 

大事なアカリちゃんを置いてはどこにも行けないよ。

そう手を取って笑ったお姉ちゃんは、いつものお姉ちゃんだった。大人びた、と思ったのは間違いだった。彼女は確かに大人になったのだ。

あたしも、大人にならないといけない。でも、まだまだ子供だったから。

だから、きっと彼女はこの家から出ることが出来なかったんだ。

 

どれだけ、あたしはこの優しい姉にどれだけの心配をかけたのだろう。

 

「ごめん、ごめんなさいお姉ちゃん…!」

 

やっと出たごめんなさいを、彼女はどれだけ待ったんだろう。もしかしたら、そんな言葉も見返りも、彼女は求めていなかったかもしれない。

 

「うん、うんアカリちゃん、大丈夫、そのままのアカリちゃんが元気でいれば、お姉ちゃんも元気でいられるんだから。」

 

変わらなくてもいいよ、大丈夫。ぽろぽろとあたしと同じそれを流しながら優しく背中を撫でてくれる手に、もうこの人を泣かせないと、あたしは誓った。

 

 

 

電極のようなのだ、と思う。

正反対の位置にいるそれは、交わることもないけれど、

単体で生きることもまた、出来ないのだ。

 

 

 

 

 

しわくちゃな枕

-歪でもいいかもしれない-

 

 

 

今度はあたしが大人になるから

それまで側にいてください