役立たずな脳は、俺の運命をどれくらい捻じ曲げるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

実感の湧かなかった葬式から帰れば、俺の声を向かえる老いた彼女の声は聞こえてこない。

ふと周りを見渡してしまった目は、彼女のいない真っ暗な部屋を認めてしまった。

一瞬の圧迫感の後、重りの付いた鎖をがんじがらめに巻きつけられたような痛みと重さが胸にのしかかる。

あぁ、いっそ、幻聴でいいから聞こえてくれればよかった。

ぎゅうと無意識に握りしめていたらしい拳を開けば、ぎちぎちと音を立てる。どれくらい強い力で握りしめていたんだろうと。

 


「…大丈夫、元に、戻った…だけ」


 

そう、大丈夫。

元々俺の家には俺1人しかいなくて

元々この家はこんな暗さで俺と溶け込んでいたんだ。

ちょっと数十年、たったそんな年数、ほんの少し明るくなったと勘違いしていただけ。

だから、こんなにこの家は暗かったっけなんて、そんなの間違ってる。

 


ふぅと息をついて灯りをつける。慣れないネクタイの結び目をぐいぐい引っ張りながらイスに座れば、けたたましい音を立てて後ずさりしたイスが静かになったのを合図にしたように、暗闇が吸い込むように密閉な空間から音が消えた。


 

「……」

 

慣れていた、筈だった。

彼女が来る前は俺は独りで過ごしていた。

静かだった。何の音もなかった。筈、なのに。

心臓の内側の壁を掻くように湧いてきた不安に似た感情に、戸惑う。

悲しみといえるような、絶望ともいえるようなそんな感情にただ俺は座ったまま動くことが出来なくて。

食卓としていた目の前のテーブルに掛かったピンク色のクロスが、やけに虚しくて、自分が滑稽になる気がした。

 

「コーヒー、飲もう。」

 


がたん、と音を立てて立ち上がる。別に、わざとじゃない。

誰に言うわけでもないのにそう言って、俺独り言なんて言ってたっけと眉を寄せる。

何をしていたか、わからない。

彼女がこの家に頬を染めながらおずおずと入ってきたあの日まで。

俺はこの家で独り何をして過ごしていたのか、もう全くわからなかった。

 


がちゃがちゃと陶器を鳴らせながらコーヒーを淹れてテーブルに運べば、2人分のコーヒーを用意していたことに気づく。

 

「あ…」

 

馬鹿だな、何やってるんだろう俺、とカップをテーブルに置いた後、彼女に付き合って飲んでから入れる習慣がついてしまった砂糖を忘れたことに気づいた。

 




「あ、ごめんヒカリ、砂糖とっ…―」

 

て。そう言って振り向いた俺の声は、真っ暗な台所に消えた。

いつも返ってきた明るい声の代わりに聞こえる静寂は、裂くように鼓膜を引っ張る。

そうだ、馬鹿だな、もう、彼女はいないのに。

はは、と乾いた哂いを漏らして

そのまま崩れるように椅子に座った。




 

これからは、また、ひとりで生きていかなくちゃいけないんだ。

しっかりしろ、俺

もう、彼女はいないんだ。

いつだって優しく笑って目の前で甘ったるいコーヒーを啜る彼女は、

自分の事のように俺の悲しみに泣く彼女は、

やたら張り切って料理を作りすぎてしまう彼女は、

ずっとずっと俺といると誓ってくれた彼女は

ずっと側で支え続けてくれた彼女は、

もう、いないんだ。

 

かたかたかたとテーブルに乗せた腕に共鳴するようにカップが鳴る。

なんで、震えてるんだろうなんて目を向けた瞬間に、ぼろり零れた。

 

「うわ…」

 

涙、だ。そう理解するまで数秒かかった

涙なんて、いつぶりなのだろう

もしかしたら記憶の中で初めてかもしれない。

そんなことを思っているうちに、ぐいと引っぱられるように頬がつった。

わなわなと震える唇にとまどって噛みしめると、鼻の奥がじんと痛んで、耳につんと突き刺さる。

がくがくと震えだした声帯に力は入らず、情けない嗚咽が吐き出された。

 

「な…、」

 

こんなとき、どうしたらいいんだっけ

どうやったらいいんだっけ

 

どうにか対処法を考えたいのに、浮かぶのは彼女の顔ばかりで

思い出されるのは文献じゃなくて彼女の声ばかりだった

 

「、ヒカリ…」

 

ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ。声を出すのも億劫なこの体で今叫びたいのは彼女の名前だった。

その3文字の羅列を、俺はどれだけ口に出来ていたのだろうか

大切な彼女の名前を、どれだけ呼んであげられただろうか

俺は彼女にどれだけ愛を伝えてあげられただろうか

 

ヒカリ、ヒカリヒカリ、返事をしてくれ戻ってきてくれ置いていかないでくれ

まだ伝えたいこともたくさん残っていて

まだ俺の一生も残っているのに

 


「なんで先に逝くんだよ…!」

 

ヒカリ、俺はもう君がいないとダメなんだ

わかっていたことなのに

覚悟していたことなのに

それでも、

目を覚ませば笑いかけてくれる人がいて

いいにおいのする朝食が準備されている朝に慣れてしまっていて

この舌はもう甘ったるいコーヒーに慣れてしまっていて

もう、苦いコーヒーなんて飲めないんだ。

1人の朝なんて耐えられないんだよ

だから、お願いだから、ヒカリ、

 

「帰ってきてくれよ…!」

 

 

顔を覆えば支えがなくなり、がたりと床に倒れこんだ。

 

 

 

 

役立たずな脳は、俺の運命をどれくらい捻じ曲げるんだろう。

わかりきっていて彼女を手に入れたというのなら、

どうしてもっと気の利けたことができなかったのだろう

どうして幸せに慣れてしまったのだろう

どうしてすんなり孤独を受け入れられないのだろう

どうしてすんなり彼女の死を受け入れられないのだろう

錯覚なんていらないんだ

幸せな思い出程辛い思い出になってしまうくらいなら

最初から選ばなければよかったんだ

 

 

 

 

 

 

 

「ひとりにしないでくれ…!」

 

 

見慣れていた筈の暗闇は、色を濃くして再び俺を飲み込んだ。

 

 

ゲシュタルトの崩壊

-光をなくした黒-

 

 

 

いっそのこと、引きずり込んでくれればいいのに。