「占い屋さん、おはようございます。」
「…おはよう、ヒカリ。」






体が溶けていくようなまどろみから覚めれば、柔らかな光は夢ではなく窓から差し込む朝日だったのだと気づく。
体を起こせば重みを感じるけれど、けして嫌な感じではなかった。





「占い屋さん、コーヒーいれてありますから」



そういって微笑む彼女に、うん、とだけ頷きベッドから降りた。




占い屋さん、と彼女は俺の名前を呼ぶ。
それ以外の名前を知らないのだと言っていた。
俺は彼女の何を知っているわけでもないけれど、悲しそうに笑って髪を耳にかけながら言われたそれは、きっと嘘だろうなと思った。
彼女のそんな瞬間はこの数ヶ月で何度も見た。
例えば、明らかに痛い、血が出ている切り傷を痛くないと言った時や、俺には占いでお世話になっただけと言った時。





「、どうかしましたか?」
「あ、いやなんでも…。」




キッチンに立つ後ろ姿を見つめていると、視線を感じたのか入り口に立っている俺を振り返った。
それがなんだかとても心をくすぐられているようで咄嗟に目線を外し、頭を掻いた。



「食べましょうか。」



そう言って笑った彼女に続き、彼女と向かい合うように席に座った。
数ヶ月前は慣れなかったこの木の椅子も、今ではすっかり温かい。



「ヒカリ、」



ヒカリ。そう呼ぶと彼女は弾けるように顔をあげる。いつだってそう。
突然鳥が飛び立ったように。驚くようなすがるような顔をする。
数ヶ月前、彼女に名前を教えてもらった時から。



「いつもありがとう。」



そう言うと彼女は悲しそうに、けれど嬉しそうに笑った。



記憶にはないけれど、彼女の話では俺とそこまで深い親交があったわけではない。そんな俺のためにどうしてここまでしてくれるのか、それが疑問だった。けれどそれは、絶対に触れてはいけない気がして。
そんなときに消えてしまった記憶がとても恨めしく、そして引きずり戻したくなる。





「今日はなにする、?」
「今日はメーちゃんの毛を刈ろうと思っています。」
「わかった。」




手伝う、と言えばヒカリはとても嬉しそうに笑った。
目の前のコーヒーも、美味しそうな食事も、彼女の笑顔も、見慣れた日常になった。






数ヶ月前、俺は記憶をなくした。
目が覚めれば紫を基調にした暗い部屋の中、彼女が俺の顔を覗き込んでいた。
異国の地のような、けれどどこか安心する香りの中、彼女の柔らかな香りが鼻をくすぐったことをよく覚えている。
右手に感じる重みに目を向ければ文字かどうかすらも疑わしい記号の羅列がびっしり書かれた分厚い本の、
円形の模様のような絵が書かれたページを開いて握っていた。
彼女の目は涙を溜めていて、目をあわせると安心したように笑った。
けれど、その涙は俺の一言で零れた。




医者の診断を受けたあと彼女が俺の手を引いて連れてきたのがこの彼女の家だった。
街からすこし外れた、日光のよくあたる、太陽が似合う家だと思った。
玄関をくぐれば動物のミルクの匂いと、温かい匂いがした。





それから毎朝、彼女は俺にコーヒーを淹れてくれる。別に何を言ったわけでも、何かを聞かれたわけでもなく、当然のようにそれを出してくれる。
まるでこれまでもそうだったかのように自然に。
彼女がコーヒーを好きなのかとも思ったが、彼女はコーヒーではなくハーブティーを飲む。
そして俺に微笑みながら、今日は何々をするのだと報告するのだ。




「占い屋さんは、」


数ヶ月の出来事に考えを巡らせていた俺は、彼女の突然の呼び掛けに肩を揺らした。



「、なに?」
「したいことや、行きたいところはないですか?」



静かに首を傾げた彼女の言葉に、うん…と逡巡する 



彼女が俺の手を引いた時からこれまで、自分の意見を求められることがなかった為、咄嗟なにか思い付くことはできなくて。
しばし頭を悩ませたあと、あ、と声をあげる。


「なんですか?」
「星……」



こんなことを言ったら笑われるだろうかと、おずおずと思い付いたものを言えば、柔らかに垂れた彼女の目が見開かれた。


「え、…」
「あ、いや、星をみたいと…思ったんだけど…」



ダメだったかな、そう言えばサラダをつついていたことも忘れていた彼女の手はゆっくりテーブルに降ろされ、反対側の手は髪を耳にかけた。


「いえ、その少しびっくりして、」


眉を下げてそう笑った彼女に、どうして?と尋ねる。



「変だった……?」
「そんなことは…!ただ……」



首を傾げれば、慌てて否定した彼女はすぐに顔を曇らせた。
ああ、また、困らせてしまったのかもしれない。




「昔、お付き合いしていた人も星が好きだったので。」



そう笑った彼女は俺ではない人を見ているはずなのに、まるで俺を見ているようだった。「俺を通して」、ではなく、「俺を」。


お付き合いしていた、という言葉にちくりと胸が痛む。
考えてみれば、なんの不思議もないことなのに。



「そっか……」
「あ、でも嫌だというわけではなくて、むしろ私も行きたいんです!」



素直に沈んでしまった声のトーンをどう捉えたのか。
彼女はまた慌てるように言葉を繋いだ。
そして、「だから本当に、驚いただけで。」と笑い、すみませんと少し顔を下に逸らした彼女は眉を下げていて。
落ちてきた髪の毛をまた耳にかけた。




けれどすぐに顔をあげて、
「占い屋さんと星が見られるなんて、楽しみです。」
と笑った彼女はいつもの柔らかな彼女だった。




勿体ない。
そう思った。
きっと彼女はその「昔お付き合いしていた」彼と、よく星を見ていたんだと思う。
俺だったら、俺だったらそんな幸せな時間を絶対に手放したりしないのに。
そんなことを考えて、我にかえって恥ずかしくなった。
口に出したわけではないけれど、自分らしくもない考えを誤魔化すように頭を掻いた。
記憶のない自分が、自分らしさなんて笑ってしまうけれど。






けれど、
「ヒカリ、」



名前を呼べば弾けるように顔を上げる彼女と
「俺も、楽しみ。」



泣くように笑ったり、溶けるように柔らかく笑う彼女と
一緒に見られる星は、きっと本当に綺麗なんだろうなと思う。














人間になれたら、まず一緒に星を見よう
‐この魔術が成功したら‐








ああ、楽しみだなあなんて
そんな幸せなことを考えていた俺は、彼女が泣きそうな顔で零した言葉に気付くことはなかった。



2606
ややこしいですね…冒頭のセリフは最後のとは関係ないですが、第2の副題的な立ち位置。