それでも星は綺麗だから


 

 

 

「魔法使いさん」

「ヒカリ、」

 

 

お待たせしました!と駆けてくる彼女に、急がなくていいと笑えば、その足を緩めずとも俺の言葉を受け取ったと言うようにふわりと笑った。

 

 

「タルトに時間がかかってしまって」

と肩で息をしながら彼女が掲げたバスケットからは水筒が2本顔を覗かせていた。

 

 

「いつもありがとう。」

「!いえ、私が好きでしてますから!」

 

ああ、俺もこんなに自然に笑えるのかと彼女に出会う前では考えられなかったことを感慨深く思えば、

ぶんぶんと手を振って真っ赤になりながら笑う彼女の赤面がうつりそうになった。

紛らわすように頭を掻いて、彼女の手からバスケットをとった。

 

「行こうか。」

 

 

私が持ちますからと慌てる彼女の声を背中に聞きながら、満月の輪郭のない、それでいて強い光に照らされた教会への坂を登る。

いつからだろう。

いつからこうしていたんだったか。

手に汗を握りながら好きだと告げると真っ赤になって涙を堪えながら頷いた彼女を抱き締めた日からだっただろうか。

いやもしかしたらそれよりも。

なんだかもうずっと昔からこうだったかのような気がする程に俺たちは毎晩同じことを繰り返している。

 

初めのうちは彼女は頑としてバスケットを離さなかったけれど、言っても遠慮されるだけとわかった俺が何も言わずに手に取るようになったのも、もうずっと前だった気がする。

 

 

辿り着いた教会前の広場にシートを敷いて、何を言うわけでも目をあわせるわけでもなく二人一緒に腰を下ろす。

 

バスケットを運んだことへの礼の言葉を俺が頷いて受け取ったのを確認してから彼女はバスケットの中身を広げた。

 

「魔法使いさん、」

 

どうぞ。ふわりと笑った彼女から水筒を受け取り、目をあわせて声もなく笑う。

そんな瞬間が、たまらなく心地良い。

魔法使いさん、という響きが好きだと思った。

彼女だけが呼ぶ、彼女の声で呼ばれるその響きが。

好きだと思った。

 

 

「あ、あれがあの星座ですよね」

「そうだね、」

「今日はあっちのあの星座もよく見えますね!」

 


俺たちは毎晩こうして並んで星を見上げる。

どうしてこうなったのかは覚えていないが、呼吸をするようにごく自然に始められて、ごく自然に生活の一部となった。

初めこそ天体はちんぷんかんぷんだった彼女も、今ではすらすらと星の名前が出てくる。

彼女は俺の言葉をすぐに吸収した。

戸惑う程に俺に歩み寄ってくれる彼女にいつの間にか惹かれていた俺は、星を見ることなんて口実みたいになっていて。

自分の変化への驚きは、生まれて始めて覚えた安らぎという感覚に変わっていった。

 

 


彼女に手渡された水筒を捻って、薫りの良いコーヒーを飲み始めると彼女はタルトを切り分け始めた。

 

「これもどうぞ」

「ありがとう。」

 

コーヒーも、美味しいよ。と笑えば、綺麗に盛り付けられたブルーベリータルトを差し出す彼女は本当に嬉しそうに、顔中に朱を広げて笑った。

 

ブルーベリータルトに手をつけると、火照った顔を冷ますようにハーブティーを飲む彼女が視界の端に写って、つい目をやる。

(それも熱いんじゃないの)と思っていると案の定しまったと言う顔をして彼女が動きをとめるから、声に出してふふと笑った。

 

「!み、見てましたね!?」

「うん、見てた」

 

また真っ赤になって慌てる彼女に益々笑えば、彼女もつられるように笑いだした。

こんな彼女の動作ひとつひとつが、とてもいとおしい。

 

照れたときに前髪を触る仕草や、嘘をつくときの髪を耳にかける仕草。ちょっとした言葉でころころ変わる表情や、歯切れの良い優しい笑い声。

ひとつひとつ、溢すことのないように胸に刻み付けて、彼女という存在が俺の中で大きくなる。

 

幸せだと思った。

夜になれば彼女がやってきて、一緒に天体観測。彼女のお手製のタルトや、わざわざ俺用に用意してくれる美味しいコーヒー。いつも彼女がハーブティーで俺がコーヒー。

そんな小さな二人だけの決まりごとが、とてもとても幸せだと思った。

 

きっとこれが、かけがえのない時間ってやつなのだろうと思って星を見上げる表情を緩める。

 

 


 

しかし今は、この魔法みたいな時間にすがる気持ちを正す。

今日は、決心をしてきたのだから。

もしかしたらこの見慣れた景色を壊してしまうかもしれないような決断。

それでも星空に頼み込むように、ここで告げると決めていた。

彼女に、伝えなければいけないことがある。

 

 

 

「ヒカリ。」

 

 

意を決して、横顔に名前を呼べば、声色に何か思ったのか素早く目があった。

 

 

「俺、散々考えたんだ。」

 

 

本当なら、決断を出す前に持ちかけなければいけなかった話だと思う。

けれど、きっとそれでは彼女を悩ませてしまうし、俺も決意が鈍ったかもしれない。

だけどもう決めたんだ。

たとえこの未来がどんな結果になろうとも。

 

 

「俺は、人間になるよ。」

 

 

 

そう告げれば、真っ直ぐに合わさっていた瞳が俺の言葉を飲み込むような僅かな間の後、静かに見開かれていった。

 

「…えっ……」

「君と同じ刻を刻みたい。」

 

一分一秒、同じ重さの時間を、同じ景色を見ながら。

叶うならば、その秒針が止まるまで、君と一緒に。

 

「だけど、だからといって君が責任を感じたりする必要も、無理に俺の決断を背負う必要もないから」

 


無理に俺に添い続ける必要はないから。君がもしこの先他の素敵な未来を見つけたなら俺はそれで構わない。俺がそうしたいからそうするんだ。

 

 

 

最後まで告げ、静寂を落とせば目を見開いたまま眉を下げる彼女は、その静寂に乗った。

 

 

どれくらいの時間が経っただろうか。もしかしたらとても短い時間だったのかもしれないが。

彼女は静かに口を開いた。

 

 

「私はひどいです。」

 

ぽつりと落とされた言葉の意味が受け止められなくて

俯いた彼女を覗き込むように窺えば、さらに言葉が続いた。

 

「私は、今、とても喜びを感じました。」

 

あなたの運命を大きくねじ曲げるようなその重大な決断に、この上ない喜びを感じたのです。

そう零した彼女は、ふっと顔を上げた。

眉を寄せたまま、きらきらと輝いた瞳が俺をとらえていた。

 

「いえ、本当は、ずっと前からその言葉を望んでいたのです。」

 

あなたの魂の在り方を翻弄させてしまうような、その残酷で無責任な願望を、私は。

そう言ってまた俯いた彼女は静かに俺の手をとった。

その手も、声も、震えているようだった。

 

 

「だから、これはあなた一人の決断ではなくて、私の勝手なお願いなのです。私の、欲望なのです。」

 

ぎゅう、と握られた手に力が込められた。

 

「魔法使いさん、人間になってください。」

 

私と一緒に、歩んでください。

 

見上げられた瞳は揺れていて、彼女の中で沸き起こっていただろうたくさんの葛藤がこぼれ落ちそうになっていた。

 

 

彼女は優しいから、

共に刻めない年齢に寂しいと言うこともなく

願わくば自分が同じ因果に乗ることを考え泣いた夜もあったのだろうに

それを口にすることも

俺を残して先立つ恐怖をおくびに出すこともなかった。

 

そんな彼女の美しい涙に指をあてれば、自然に自分の頬も緩んだ。

 

 

 

「ヒカリ、ありがとう。」

 

君はひどい人間なんかじゃない。

何よりも綺麗だ。

だからこそ俺はこの決断に微塵の後悔もないのだ。

 

 

「すごく嬉しい」

 

 

そう笑えば、一度ぐしゃりと顔を歪めて彼女は声を上げて泣いた。

 

 

 

 

 

彼女が泣き止んでから、たくさんの話をした。

人間になってからのこと

これからの暮らしのこと

そして

呼び方のこと

 

「人間になったらもう魔法使いさんとは呼べませんね」

「ああ…そうだね。」

 

そうなったら名前で呼んでもらうしかないね

そう意地悪く微笑めば彼女は目を丸くしながら真っ赤になった。

 

そうだ、人間になったらいっぱいいっぱい名前を呼んでもらおう。

それまでもう少しの辛抱だ。

 

「人間になったらまず何がしたいですか?」

「ん…?そうだなあ……」

 

 

彼女の言葉に顎に手を添え考えた。

ああそうだ、魔法使いでも人間でも

きっと感じる幸せは変わらない。

 

 

「星を、見よう。」

「えっ」

 

 

人間になったらまず一緒に星を見よう。

そう笑うと、彼女は声を出して笑った。

 

「魔法使いさんらしいです。」

 

そんなところが好きなんですと笑う彼女に赤面すると、彼女も少し赤くなりながら恥じらうように言った。

 

「さっき、魔法使いさんは君が他の未来を見つけてもって言いましたが、私は他の未来なんて考えられません。」

 

 

だって、他の人と見る星空なんて想像も出来ませんから。

と笑った彼女を優しく抱き締めた。

 

 

 

ああ、早く彼女に名前を呼んで貰いながら一緒に星が見たいなあなんて

描いた幸せな未来を祈るように星空を仰ぐ目を閉じた。

 

 

 

 

君に名前を

-呼んで欲しかったなあ-

 

 

 

 

(人間、なれるかなあ)

(魔法使いさんのままでももちろん私は愛していますよ)

 

 

 

 

 

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