地球が360°回るなら、世界は何も変わらないのだと思う。
「霧野先輩、」
先程までグラウンドに響いていた騒がしさが嘘のように静まり返り、すっかり枯葉のように染まったそこにその人の姿を見つけた。
思うより響いてしまった―というより元より出すつもりのなかった―自分の声に驚き、縹色の髪を揺らす。
(話しかけるつもりじゃなかった…)秒単位で数えられる程しか経っていない「前」の自分を思いだし、肩にかけたカバンの紐を握る手に力を込める。
「狩屋、なんだ、まだいたのか」
磨いていたボールから目をあげこちらを見た彼の言葉は、自分が先程思いがけずかけてしまった言葉への口実に使おうと咄嗟に考えた言葉だった。
「あ、はい…まあ…。先輩こそ何してるんですか、」
(先輩こそ何してるんですかなんて、言うに事欠いてそれかよ。)使われてしまった言葉への代替も考える間さえ不自然な気がして。焦った頭は、見ればわかるだろうと言われてしまうような言葉を発させた。
でも、この人は違う。
「ん、ボール。磨いてたんだ。」
やっぱり自分たちが使わせてもらってて、一緒に育っていく仲間みたいなものだから。そんな風に笑って、彼は再びボールを磨き始めた。
ベンチに座る彼の足元にはたくさんの綺麗になったボールが転がっていて、いつも全部この人が磨いてたのか、とか、その中に自分の蹴ったものもあるのか、とか、そんな考えが頭をよぎった途端に、ぎゅうと胸に沸き立つものを感じた。
この人は、違う。
そう思ったのは、確かそう昔でもない。
今の会話だってそうだ。この人はいつだって自分の芯があるんだ。だから急に話しかけたって変に慌てたりもしないし、俺の変な問いかけにも笑って答えられる。どんな言葉だって、一蹴せず、きちんと受け止めてくれる。この人はそういう人なんだ。
ダークピンクが溶けて広がるマンダリンオレンジの中で揺れ、早まった鼓動が冷たい汗を手に握らせる。
言わなければ、いけないことがある。
そうだ、俺はこの人に言わなければいけないことがある。
そんなことが急に思い出され、心臓が締め上げられるような感覚を覚えた。
掌いっぱいに広がるぬるりとした汗ごと力いっぱい握ったカバンの紐がぎちりと音をたて、どくどくと耳の後ろで心臓が鳴る。
あの日から、
言えていないことがある。
ずっと、
ずっと言いたかったこと、
言ったところで今はもう自己満足でしかないけれど。
それでも、伝えなければならないことが。俺には。この人に。
「あ…の、先輩…。」
ごく、変なタイミングで飲み込んだ唾は、今俺の言葉のどこを区切って邪魔したのだろう。
呼びかけだけでも伝わってくれれば、いや、伝わってくれなければ。
そんな矛盾し混在する思いが届いてしまったのか
彼は声をあげることなくこちらを見た。
聞こえたような、聞こえなかったような。
そんな曖昧な色が残した逃げ道はとても狭くて、きっと踏み外してしまうような怖さがあった。
「あ…、」
えっと、そんな言葉がぐらぐらと揺れる空気を繋ぐ。
あれ、どうやって声を出すのだったか。
「あの、あの時は…―」
すいませんでした。
そんな簡単な言葉がでてこなくて。
形だけなら簡単に出せるとされるその言葉は、想像以上に重たくて、ずしりと喉に引っ掛かる。
軽い言葉だと哂った人物を恨み、どうにか、と焦った無意識は右手に髪を掻きむしらせる。
筋違いな恨みだとわかっているから、本当に恨むべきはあの時の自分だとわかっているから、余計に言葉は詰まってしまう。
こんなこと言っても許される行為じゃないのに。
そんなもっともな声が頭に響き、不条理に阻止しようとする。
そんなまともな考えが、あの時浮かべばよかったんだ。
そんなまともじゃない行動ばかりがあの時も今もここにある。
「あの…」
ああ、もうだめだ。
物心ついてから初めて浮かんだその言葉は、絶望というなつかしい闇に俺を引きずり込みそうになった。
「狩屋。」
片足がつかまれたところだっただろうか、彼の声は強く優しく腕を引き、この世界に戻してくれた。
呼びかけに声も出ぬまま彼を見れば、その人は立ち上がりこちらにボールを掲げていた。
「サッカー、しようか。」
にこり、微笑んだ彼の笑顔は、ほら、やっぱりこの人は違う。
サッカーしようか、とボールをくれた彼は特に勝負をしようという雰囲気ではなく、なんとなく蹴り返した俺のボールを優しく蹴り返し、まるで子どもがするような蹴り合いを始めた。
ぽーんぽーんと柔らかな重みのある音がグランウドに響き、ゆっくり俺の緊張を溶かす。
足元に正確に戻ってくるボールをスパイクで抑え、(何してるんだろう、俺。)と呆れたように息をつけば、彼は「狩屋、パス」と楽しそうな声をかけてくるから
つい、けなすことも出来ずに蹴り返してしまう。
夕陽が寂しいだなんて、思ったことはない。
少なくとも、明日になればまたあそこへ戻ってくると気付いた時から。
(あ、)コントロールが崩れ、思い描いた起動よりも遥か高く飛んでしまったボールを目で追えば、マンダリンオレンジの夕陽とぴたり重なった。
空にキャッチされたように夕陽に吸い込まれたボールはまるで太陽になってしまったようで、(ナイスゴール)なんて感情のない声で1人持ち上げれば、逸らすことを忘れていた目は消えかかりそうな筈の強い光に眩んだ。
「狩屋」
今更逸らした目を反射的に呼びかけの元へと向ければ、そこにある筈の人物とは異なるものが見え、ぞっとした。
幾分眺めればそれは先程となにも変わらない彼であるとわかるのだが、黒く潰された姿からは表情も読めず、まるで異形な姿に見えた。
それが眩んだ目のせいか、最後の力を振り絞るように激しく光を放つ夕陽が逆光として背にあるせいか、それとも他に理由があるのかはわからないけれど。
彼の元へと戻ったらしいボールは再びぼん、という音を響かせ空へと上がった。
しかしそれがこちらへ来ることも、来るであろうと思わせることもなく。
始めからこちらに飛ばす気がないのだろうとわかったそれは案の定空から彼の足元へ落とし戻された。
「なんですか、」
そういえば先の言葉を返していなかった、と今更と思いつつ彼のようでない人物に問い返した。
なぜだか早く答えなければいけないような気がして、少し怖かった。
するとその影は足元へ戻ってきたボールを軽く蹴り上げ、リフティングを始めたようだった。まだ、目は眩んでいる。
「お前は、この世に不必要な人間がいると思うか」
どきり、とした。
心臓をキリで刺すかのような衝撃に思わず肩を揺らすと、「でも彼は、」という思いが浮かんだ。
そうだ、確かに痛すぎるほど聞き覚えのある言葉。けれど、彼はそれを知らないはずだ。知らない、はずなんだ。
「え…っと…」
それは確かに俺が放った言葉。俺の意見だったもの。今自分とボールの蹴り合いをしていたその人を指して、俺が言ったものだ。
けれどその時この人はこの言葉を聞いていなかったはずだ、だから、いや、それならばなぜ。
口の渇きを覚えながらひねり出した言葉は曖昧で、回答に迷う心がそのままに表れてしまったようで思わず奥歯をきつく噛みしめた。
「俺は、いないと思う。」
すとん。今までとは違う、まるで重さを持たないかのような音をたてて、空を跳ねていたボールは姿を消した。
黒い影と重なったそれが、彼の手に収まったのだと理解するまでにはそれほど時間もかからなかった。
「…。」
この世に不必要な人間などいない。そう言った影の声は、ああ、やっぱり彼なのだと思わせた。
「俺も昔は、よく言われたもんだよ。」
くるり。ボールを弄びながら体の向きを変えたその人物の横顔が、夕陽に照らされ彼を映し出す。
(あ、先輩だ。)なんて当たり前のことが安堵と共に胸に落ちてきて、とくんとひとつ穏やかな鼓動を打つ。
「先輩が…?まさか…」
頭に入るようで入らない不思議な感覚の中、どうしても聞き逃すことを許さなかったその言葉に疑問詞を返すと、(よく言うよな、)と笑顔の哀しい子どもが嗤った。
自分の声とよく似たその子供はなるほど昔の(されどたった数か月前の)自分だった。ああそうか、俺もこの人に同じことをし傷つけたじゃないか。
してしまったことへの罪悪感と後悔と、そんな気持ちを彼に持ってしまった自分への苛立ちに眉間に力を込めると、詰まった言葉は先に続かない。
「ははっ、」
一瞬こちらを向き見開かれた明るく澄んだ勿忘草の色をした目は、ふわっと弧を描き、凛と響きのある笑い声を乗せた。
すっと地面に目を戻した彼の顔も、今はもうよく見える。
「なんで笑うんすか…」
「狩屋も丸くなったなと思ってな」
悪い、と苦笑いした彼に、別に嫌な気分ではなかったと思った自分に首を傾げたりして。
丸くなったという表現が正しいのかと思案しようとしたが、彼の言葉が先の余韻を残したまま続いた。
「分けられてしまったんだ。俺も。必要な人間と、不必要な人間に。」
彼が「も」という言葉を意識的に選んだのか、流れの上で使っただけなのか、そこにある意味の真実はわからないけれど、まるで自分を指しているようで。痛みを伴う鼓動がひとつ速度を上げた。
ぎゅうと握った拳の中、伝う汗は冷たいけれど反するように熱くなっていくのがわかった。
「必死に練習したよ。そりゃあもう死に物狂いで。」
負けたく、なかったんだ。ふふっと笑ってボールを見つめる彼は、俺の返事を待つことなく続けた。きっと彼はわかっていたんだ。俺が、返事を返せないことに。
「そりゃ辛かったよ。なかなか認めてもらえない焦りも、悔しさも、涙もたくさんあった。けど、」
くるり、こちらを向いた彼は先程と同じ位置に夕陽を背負っていた。
けれど、その表情はとても鮮明に
「決めたんだ。次に「必要ない」と言われるのは、上手くなって存分にサッカーを楽しんで、俺がサッカーをやめる時だって。」
溶けるような夕陽に照らされにこりと笑った彼は、どこかで見たことのあるような花によく似ていた。
「それまで…自分が満足がいってやめるまで、絶対誰にも言わせない。それくらいうまくなってやるんだ、って。決めたんだ。」
まあサッカーをやめようなんて思わないけど、と笑い、頬に掛かる髪を耳にかけた彼は、小さく「少し恥ずかしかったかな」と続けた。
彼の背負う夕陽はやはりとても眩しくて。けれど、目を逸らすことは出来ず、凛然としたその姿に吸い込まれる。
俺は、サッカーが好きだった。
そんな思いがふと湧いてくる。
俺はサッカーが好きだった。俺にはサッカーしかなかった。希望、みたいなものだった。馬鹿にするやつらを見返す、俺にとって唯一のものだった。
けれどそれがいつしかサッカーを「手段」とか、「道具」としか見られなくなって。
勝つことにしか意味がなくなったそれはとても苦しくて、けれど引き下がれば負けてしまう恐怖は俺を間違った方に追い立てていた。
そんなことに気付いたのもつい最近で。
自分を追い出そうとした人間を追い出そうとした俺は、その相手がこの人であったから
この人はそんな人ではないと、世の中そんな人間ばかりじゃないと
悔しいほど長い時間を費やしてしまったけれど知る事ができた。
考えを改めようと思える事ができたんだ。
この人だったから。
この人じゃなければ。
浮いては沈む一言は、俺の人生と、彼の人生を表しているようで
ぐっとのみこんだ息ひとつ
どうしようもなくあつくなったこの胸から、今。
地球が360°回るのなら、世界は何も変わらないのだろうと俺は思う。
けれど、彼は違う。
この人は、違うのだ。
この人は、360°回る間に世界は変わり、回る前と回った後では全く違うと笑う人なのだ。
そういう人なのだ。
だからきっと今、彼の世界に立つ俺は、変わることができる
そんな気がするんだ。
「霧野先輩、俺、あの時は―…!」
ほら、だっていつも真正面にいてくれるのは彼だから。
廻天
-360°、生まれ変わる-
「 、」
ボールを落としてそう笑った彼は泣きそうな顔で微笑んだ。
2502