高い所と 低い所と
それはまるで堀らしき
「私、病気みたいです」
それは、日常の会話と言うにはあまりに突然で突拍子な言葉。いたって真面目な顔で告げた彼女はいたって健康そうだったが
動揺に似た驚きで飲みかけの適温なコーヒーをカップごと床にぶちまけてしまいそうになった。
「…え?」
幾分頭からさぁと熱いものが引いてから冷静さを取り戻す間を開けて
コーヒーが1滴も変わらずにカップの中にあることを確認し、静かに聞き返した。
波紋に映った俺はひどく怪訝な表情をしていたと思う。
「病気なんだと思います。」
明日にでも死ぬという話をしているかのように今にも泣きだしそうな目線を下げて
軽く俯いた彼女はそう言葉を繰り返した。
テーブルの下で隠れていてもわかるくらい力いっぱい握りしめた拳を膝の上に置いて。
きっと拳に巻き込まれたスカートは小刻みに震える肩と同じ動きをしているんだろう。
「…病気…って、何の?」
ざわざわと騒付き始める鼓動と眉を顰めて彼女の顔を覗き込むように問いかける。
「だって、だっておかしいんです!」
急に顔を上げた彼女の語気は強く、緩急に驚いた俺の背は思わず跳ねた。
「おかしいって…?」
先程から一つ一つと謎ばかりを増やす彼女に俺はその言葉をただ繰り返した疑問しか出せず焦れったさが募る。
「わからないです…」
「、は?」
あまりに予想外過ぎた彼女の返答に、思わずむせそうになった唾を飲み込んで、間抜けな声で聞き返してしまった。
「わからないって…なに、?」
「…」
それは医者にもわからない新種の病気ということなのか、まだ医者に掛かっていない彼女の憶測にしか過ぎないものなのか聞きたかった俺の問いかけに彼女は再び俯いて黙りこくってしまった。
「ヒカリ…?黙ってちゃ、わからない」
「…」
わからないなんていい嘘。
話の流れからするときっと彼女はまだ医者に掛かっていないのだろう。最初におかしな事を言った時も、「かもしれない」という仮定の表現を使っていた。少し冷静になって考えればすぐわかることで、黙りこくる彼女に急かすように回答を迫る必要はないのだけれど。
直接。ただ何故だか俺は彼女の口から直接聞きたかった。
「病院には、行った、の?」
ふるふる。彼女は俯いたまま小さく首を振った。ほら、やっぱり。
ようやく予想通りに事が進み、話の整理がつき始めた頭が冷静さを取り戻す。
「どんな症状、なの?」
続けた俺の質問に、彼女は少し顔を上げ黙った。しかしそれは今までの沈黙とは違い、どう表現したらいいか悩んでいるような沈黙だった。
「その…、普段は何ともなくて、元気なんですけど…」
ぽつ、ぽつ、置くように言葉を紡ぎ始めた彼女の目線を辿ればただの床で。
「でも、魔法使いさんに会うと、なんだか動悸がして、でもすごく安心して…矛盾して、と、とにかくおかしいんです」
ぽとぽとと、慎重に選ぶように零された彼女の言葉に思い当たる一つの病が脳を支配する。
病と表現するにはかわいらしすぎて、しかし病という表現ほどしっくりくるものはない感情。
でも、まさか、彼女が、なんて否定の言葉でかき消してもそれ以外に見つからない。
だって、最近俺も体験しているから。
「最近はもっとひどくなって、魔法使いさんのことを考えるだけで動悸がしたりして、嬉しくなったり、不安になったりするんです…夢にまで魔法使いさんを見るようになってしまって、」
自覚した病とそっくり同じそれは、きっと確実に俺と同じ病。
なるほどそれは医者に掛からなくてよかったかもしれない。
だって医者にはどうすることもできないから。ため息をつかれて追い返されるのがオチ。
よかった、病原菌の俺のもとに直接来てくれて。
俺の病も、君の病も、処方箋はここにある。
「ねぇ、それってさ」
手繰り寄せた病の名に、彼女も俺も茹でられたのは言うまでもなくて。
高い所と低い所と、それはまるで堀らしき。
恋のぼり
−5月に始まる気温上昇−
、恋の病なんじゃないの?