それはまるで、落とし穴。
 
手を差し伸べたあなたごと
 
引きずり下ろしてしまう穴。
 
 
 
 
 
 
 
「春菜、」
 
 
 
グラウンドを染め上げる かけ声や足音が夕陽に変わった頃
 
1人ぼうと残影を眺めていた彼女にかけた彼の声は
 
凛と静かに残映に溶けた。
 
 
 
「、お兄ちゃん」
 
 
 
 
 
後ろから近づく気配に気づかなかった彼女は、その聞きなれた声に意識を引き戻された。
 
びくんと揺れた肩に藍がかった黒が踊り、丸い瞳は彼を捉えた。
 
 
 
「ここで何してるんだ」
 
 
 
一度瞬いて笑うように細められた瞳に問いかければ、ゴーグル越しに合わせていたそれは再びグラウンドへ向けられた。
 
 
 
「うーん、何ってわけじゃなくて…浸ってた…かな」
 
「浸っていた?」
 
「うん」
 
 
 
疑問詞を疑問詞で返されたそれを反復すればこくりと頷く。
 
そっと近づいて隣に腰かけた気配にあずけるように彼女は首を傾げた。
 
 
 
「イナズマジャパンも、もう世界一かーって…」
 
 
 
足をぶらりと動かして目を細めた横顔を眺め、彼は思い出を探し辿るようにグラウンドに目を向けた。
 
 
 
「そうだな…」
 
 
 
ふわり。撫でるように吹いた風が視界の端で黒を躍らせる。
 
 
 
いろいろあったな、と呟こうとした彼の言葉は押し留めた思考がひゅうとかすらせた。
 
 
 
「お前とはいろいろあったな」そう言ってしまえば済むはずの話を、なぜだか彼は口にすることができなかった。
 
 
 
(イナズマジャパンの話をしているんだ…なにも俺たちの話じゃない…)
 
 
 
言い聞かせるように首を降ってうなだれれば、見下ろすようにグラウンドが視界に入った。
 
毎日あのメンバーが容赦なくスパイクで駆け回っている地は穴だらけで。
 
(同じなんだな…)と苦笑した彼はぞっとした寒気に身を震わせた。
 
 
「お兄ちゃん」
 
「、なんだ」
 
 
不意に呼ばれた声に背を跳ねて顔を向ければ
 
 
「お兄ちゃんともいろいろあったよね」
 
 
藍色の目に吸い込まれた。
 
 
「やっと再会できたのに…あの時は本当にショックだったけど…」
 
「、でもやっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんですごく安心した」
 
 
ふわり。細められた目からそれを逸らす事は出来ず
胸から沸き上がり身体中に広がる感情を抑えるように彼は強く拳を握った。
 
 
(驚いたんだ、)頭の中で呟くそれに彼自身が頷く。
 
(ただ驚いたんだ。春菜も同じ事を考えていた事に。ただそれだけだ)言い聞かせるように呟いて、沸き上がる想いを打ち砕く。
 
 
「お兄ちゃん…」
 
 
消えるように彼女は零した。
返事はできない。今口を開くのは何故だかとてもいけない気がして。
 
 
「覚えてる…?約束」
 
続けて彼女が零した言葉もか細く、静まりかえったこの空間でなければ聞き逃してしまうような
むしろ彼女はそれを望んでいるのではないかというくらい小さな声だった。
 
 
「…ああ…。」
 
そう答えるのが彼は精一杯だった。
 
 
約束。2人が幼い頃彼が彼女に誓った約束。
 
忘れる筈はない
 
 
「ああ…。」
 
 
彼はもう一度繰り返した。
あの日の情景、彼女の目、心情が鮮明に戻ってくる
 
「よく覚えている。」
 
むしろ離れずここにあったのではというくらい。
 
 
「…ねぇ…、今も…」
 
そこで止めた彼女の声の続きは痛いくらいの静寂。
彼女が言いたいことなら、よくわかる。
 
 
「っ!」
 
掻し抱いた彼女の肩は大きく跳ねた。
それすら押さえ込むように強く抱けば、左肩に重み。
 
 
「何回でも誓ってやろう」
 
 
それはまるで落とし穴。
2人一緒に落ちた穴は
いつの間にか底無し沼になっていた。
あぁ、あの夕焼け空のように
紫も黄色も赤も溶け込めたらよかったのに。
 
 
 
「お前は一生俺が守る。」
 
 
兄妹哀
‐それはとても哀しくて痛い愛‐
 
 
 
 
 
、ぬけだせない。