「あの桜は、まるで血飛沫が散ったような花が咲く」
そう言われていたのは、今から何年前のことだったでしょうか。
「この桜の下でよく遊んだものだったな」
これでもう見納めか。と色褪せた桜の幹に手を当てながらあなたは言いました。
最後くらい咲いてくれても良かったのになと小さく零した声を、私は聞き逃しませんでした。
「いつ、お戻りになられるのですか?」
あなたとの会話の間を埋める海風の音は、聞きなれているあなたの声を別のものに変えてしまうような、そんな怖さがありました。
「…、わからないよ」
ふ、と眉を下げて笑ったあなたの言葉は、私にはもうすっかりわかっていました。けれどやはりどんなに小さなものでもいい、縋りつける希望を探していたのでしょう。あなたの口から、いつか、いつか必ず戻ると、そんな言葉が聞きたかったのだと思います。
ですから、だからこそ「もしかしたらもう…―」と紡がれかかったあなたの言葉を遮ってしまったのかもしれません。
「私は、私はお待ちしております。」
いつまでも。先の言葉を遮られたあなたは、手を取る私を静かに見つめました。きっと、心の底では哀れんでいたのでしょう。あなたは優しい人ですので、この先何年も独り自分を待つ女を不憫だと、自分は後ろ目が痛い男だと責め、惻隠に心を苦しめるのでしょう。
ですけれど、ですから、
「私はあなたの重荷になりたいわけではありません」
いつでも良いのです。もう、一生思い出してくださらなくても構いません。ただ、ふとした瞬間に、少しでもあなたの瞼の裏に浮かぶことができたなら、私は幸せです。
「どうか、お元気で。」
私は大丈夫だと、笑顔で別れを告げたかった私の瞳は、反するように雫をこぼしました。
隠すように垂れた私の頭を胸元へ引き寄せ抱きしめてくださったあなたの温もりが、押し留めた未練を引き出すようで、心の臓の震えは肩にまで広がりました。
翌日、あなたは遥か遠い異国の地へと海を越えて行ってしまいました。
船から手を振ったあなたは、きっと私が船を追い、駆けたことを知らないでしょう。
あなたを呼ぼうともがいた喉は、叫ぼうにも声が出ず、ただただ無様に船を追いかける事しかできませんでした。
私のもつれる足とは比べようがないほど速く離れていく船に必死で手を伸ばし、船で埋まっていた私の視界はいつしかその周りの景色も映すようになりました。
そして急に縦に流れたかと思うと気付けば冷たいコンクリートで埋まっていました。
苔の生えたコンクリートから目を上げれば、もう遥か遠くに、それだけを映そうとしても視界の1/3も埋めないほど小さく、あなたを乗せた船は波をきっていました。
「行かないでください」と今更ながら叫んだ声は、けたたましくぼうと鳴った汽笛にかき消されました―ぼうと表現すれば優しく聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはなく、優しさの仮面を剥いだ鋭い裁きの音は、重く厳しく、残酷でした。
今、あなたはどこで何をしていらっしゃるのでしょう。
あれからどれだけの年月が経ったのでしょう。
車イスをからからと鳴らしながら海を眺めれば、懐かしい風がすっかり白くなった私の髪を揺らします。
ああ、あなたは今、この桜を思っているでしょうか。
これまでの歳月の中、一度でも私を思い出してくれたでしょうか。
そっと幹に手を添えれば、あの時と同じ雫が私の膝を濡らしました。
ああ、この桜は今、真っ赤な花を咲かせましたよ。
桜の咲く港
-その桜は汽笛を揺らす-
波に乗る花弁は、あなたの元へ届くでしょうか。
24.10