世界に一人だけとなった。真っ暗な静けさに呑まれた真夜中にふと目を覚ますと、そんな気持ちになった。



暗闇に慣れない目の端に写りこんだ光に目を凝らせば、青白い月の光が筋のようにカーテンの隙間から漏れていた。



は、と軽く息をつけば手にぬるりと脂を溶かしたような汗を握っていることに気づく。
どろどろと全てが溶け、空中か水中か、そもそも今足の届くそこが空か地なのかすらわからない世界からぽんと放り出されてから数回、時計の秒針の音を聴いた。

そうか、現実か、と認識し始めた頭は同時にあれは夢だったのかと気付かせた。




「神さま」




先ほどまで手の届くそこにいた彼の名を呼ぶ。けれどその名に絡み付いた映像が頭の中を駈け、ぎゅうと心臓を潰す。
ついさっきまで見ていたことで、しかもそれが現実だと思い込んでいたのだから仕方がないことだ、そう思った。



けれどあれが本当に夢だったのかと疑えば、ああもうだめだ。




じめりと汗を吸い込んだ布団を掴み飛ばし、裸足のまま飛び出した。
ドアも靴も今は障害でしかない。




どんなに速く走ろうとしても限界を知るこの足では、流れの遅い景色がもどかしく焦れったい。
通いなれたこの道も今はとても長かった。




息を切らせて辿り着いたそこは月の光がとても強く眩しく、ああ今日は満月だったかと思い出させた。



「神さま、」



呼吸なんて整わなくていい。一刻も早くと呼んだその名は痛いほどの静寂が包む岩場によく響いた。


青白い空気が辺りに満ち漂う中静かに佇んでいた彼は音もなくこちらを振り返った。

その表情に驚きはなく、まるで私がここに来るのを知っていたかのような。

ああ、彼だ。そんな感情が胃液のせりあがったような心にじわりと溶け込んで

確かめるように何度も瞬きを繰り返して存在を刻み込んでいると、その中心にある唇が開かれた。

 

「どうした。」

 

眉一つ動かさずに問われたそれに は、と我に返る。

 

「いえ……その、」

 

意味などない。

飛び出してきた時に抱えていた動機もあまりに曖昧で輪郭を持たないものだった。

もしそれに形を与えるとして、彼がここにいるということが確かめられた今、もはやそれも済んでしまったのだ。

けれど変わりのない凛とした眼差しで促されて何も答えないという選択は、私にはなかった。

 

「私、神さまが…、いえ…。神さまは…ずっとここにいますよね…?」

 


一度紡ごうとした答えをやめ、質問に変えた。その方がずっと自分にとって大事なものだと思ったから。

 

「…なんだそれは」

 

それでもそれさえも初めから予想していたのかと思わせるほど瞳の色を変えずに射抜くそれに、愚かな問いをしていると思い知らされる。

 

「どこかに行ってしまったり、しませんよね…」

 

それでも止めることのできない渦を巻く不安を瞳にのせて零せば、無意識に自分の胸元を掴んでいた右手に力が入る。

痛い。とても。とても痛い。

 


ひゅう、と耳元の髪をさらった風は小さく高く、冷たい音をしていた。

2人の間を埋めるそれが素足に痛い。

答えが欲しい。一刻も、一刻も早く。

 


先程まで聞えなかった自分の鼓動がやけにうるさくて

目の前にいる彼はやけに答えをくれなくて

ああ、この鼓動にかき消されて届かなかったかもしれないなんて思った。

急く私の心とまるで対のようにゆっくり目を閉じた彼は、小さく溜め息のような息をついた。

どきりと構えた私に響く声。

皮肉なものだなと思った。答えを待ち望んでいた筈の私の心は、彼が言葉を紡ぎ出すことに怯えてしまった。どこかで、答えが怖いと思ってしまっていたのだと気付かされてしまったのだ。

 



「そんなことを聞いてどうする。」

 



響いた彼の言葉は答えになっていない。そう気付くのに数秒はかかったと思う。予想していた―欲しがっていた答えと、認めたくないけれどどこかで怖がっていた、もしかしたら大半を占めていたのかもしれない答え―その両方、どれとも違うそれが質問であること、そしてその質問を理解するのにさらに時間を費やした。

 



「、」

 

無意識に言葉を繋ごうとしたそれは空気にしかならなかった。

わからない。

彼がなぜそれを問うたのかも

私がそれになんと答えるのかも。

 

「わた…しは…、」

 

あだとかえだとかそんな言葉が乾いた口の中に溜まる。溢れてぽろりと零れたそれらになんの意味もない。

その中から彼へ向けて届かせる言葉が見つからないまま戸惑いを視線にあずけて足元の岩肌に投げる。

黒と白の糸がぐちゃぐちゃにからまった頭の中はもう考えるための隙間も残されていなくて

電源が落ちるように考えることをあきらめてしまった。

 


すとん、と強張った肩が落ちたのを彼が何と見たのか、

先程よりもはっきりと息をついて「いや、良い。」と首を振った。

 


その言葉をどう捉えれば良いのかわからず彼に目をやると、再び静かに合わせてくれたそれが少しだけ細められた。

 


「こちらへ来い。」

 



そう言ってきらきらと光る真っ赤な髪を揺らし、背を向けた彼はそのまま腰を下ろした。

状況についていけない頭は、けれど彼に愛想を尽かされたわけではないとわかって

安堵に動く足は軽く岩肌を駆けた。

 




どしりと構えあぐらをかく彼の左に、先程の言葉に甘んじて腰を下ろす

膝を抱えると、寝巻のまま飛び出してきてしまったのだと改めて気づいて、少し気恥ずかしくなり体が小さく纏まるように強く膝を抱いた。



 

 

「…すまなかった。」

「え、」

 

先までの威圧的な声色とまるで違う、明らかに音の落とされたそれが謝罪だと、そしてそれが何に対しての謝罪なのか

ただ前を見つめる彼の横顔を見上げながらそう思いを繋げている途中で彼は言葉を繋げた。

 

「少し、意地の悪いことを聞いてしまった。」

 

今度は簡単に答えをくれた彼のそれがなんだかとても愛しくて、くす、と笑った。

 

「いえ…構いません。」

 

少し驚きましたけれど、と小さく続けて、答を出せなかったことを謝るべきかと考えた。

 


「くだらんと思ったのだ。」

「、くだらなかった…ですか…?」

「ああ。」

 


ちく、と何かが刺さる音が聞こえた。

くだらなかったのか。彼にとって。私が寝巻のまま裸足で飛び出してくるような強い情動と不安を生み出したそれは。

ぎゅうと腕に力を込めれば、何か刺さった心臓に穴が開いてしまったのかまたどくどくとうるさかった。

 


「お前は、我がどこかに行くと思っているのか。」

 

え、と顔を向ければ、こちらを見る赤い瞳とぶつかる。

 

「我がここを去り帰ってこないと思っているのか。」

 

紡がれた問いに再び戸惑いを感じながら、けれどそこに意味を探ることは必要ないと

してはいけないと

真っ直ぐで悲しいそれが全てを語っているようでそう感じた。

だから

 


「神さまは…最初ここにはいませんでした。」

 

私も真っ直ぐに答える。

 

「私がこの島に来たとき、ここは空っぽでした。」

 

神さまはここにはいなかった。

誰もいない、温度も色もない神の座を思い出してぎゅうと胸が締め付けられる。

苦しい。

 


「だから、また急に、ここを去ってしまうのではないかと思って、」

 


彼がまたいつ眠りにつくのかわからない。

そして永遠にこの島にいるのかすらわからない。

何も、ほんとうに何もわからない。

絶対にという確証がまるでない。

せき止めていた思いの蓋が外れる

溢れて、止まらない。

 


「私に、何も言わずに、突然、消えてしまうのではないかと思って、」

「怖くて、苦しくて、寂しくて、不安で、」

 



遠すぎるのだ。彼は。

たとえ心が通じ合ったとしても、側にいるという感覚がまるでない。

わからないことが、独りよがりのようなことが、とても、とても多い。

 



「やだ…どこにもいかないで…ずっと側にいて…」

 


私を独りにしないで。

 




押し込まれた言葉は波がさらうように溢れた。

ずっと心にかかっていたもやが、ずっと零したかった言葉が、

許されたように広がっていく。

伝えたかった思いは頬を流れて落ち、赤く滲む青白い空間を視界から押し流した。

 


伝えてしまった。自分でも持て余していたあまりに空漠で不安定な感情を。

伝われ、どうか、伝わってほしい。届いてほしい。私の声を、聞いてほしい。

そんなわがままをもう一つだけ。

 




小さく折り畳んだ膝に顔を埋めて声をあげて泣いた。

何年振りかも覚えていない

彼の前で泣いたこともない

けれど声を抑えることはできなかった。

 



独りのようだった。彼がここにいるとわかっていても、離れすぎた距離にまるでこの世界に独りになる錯覚を覚えていた。

もしここに本当に彼がいなくなってしまったら、私は。

 

 

子どものように泣く私の引きつった耳に、彼の衣が擦れる音

そして

 

「ヒカリ。」

 

揺れのない、真っ直ぐな声。

 

それは、彼が初めて呼んでくれた私の名前。

 

「――、」

 

涙でぐちゃぐちゃな顔を拭うことも忘れ顔をあげると、体ごとこちらに向けられた真っ赤なその中に、私が映る。

 

「我はどこにも行かぬ。お前を置いてどこかに行くことなどありえぬ。」

 

真っ赤に彩られた私が少しだけ揺れて

 

「絶対に、ありえんのだ。」

 

私の目に赤色が溜まる。

 

 

 







 

 

 

 

とても恐ろしい夢を見た。

そう、あれは夢だったのだ。

そして今、素足で飛び出して

恐ろしかった夢ではない

夢のような現実を識る。

 

 

 

ああ、きっと彼はなんでも知っているから

私の悩みがわからなかったのかもしれない。

そう思ったら心が優しく溶けて滲んで、柔らかな形をつくりはじめた。

 

ふふ、と笑った私につられて優しく表情を崩した彼にそっと肩を預けると、青い空気はいつの間にか真っ赤な太陽に染められ始めていた。

 

 

 

Morpheus

-残酷な、けれどとても優しい-

 





約束しよう、

必ず、ずっと側にいると。

そう言った彼の手は温かく私のそれと重なった。

 

251128夢と現実はとてもよく似ているけれど、現実の方が幸せだし、変える事ができるし、いいよねって。限りなく尻切れトンボさん!