雨みたいだと思った。
陽射しのように柔らかなとか、そんなものじゃなくて
激しく全身に打ち付けて。
潤しながら痛め付ける、彼女はそんな雨みたいだと思った。



……人間?」

何とはなしに歩いていた俺の足は、いつの間にかクラリネット地区の土草を踏んでいた。
道中の記憶は全くなく、無意識にここへ向かったのかと思うと
この地名で真っ先に浮かぶ彼女の名に苦笑した。

帰ろう。そう思い体を向き直しかけたその時、
がさり。激しい雨の音で掻き消されそうな、小さな小さな 茂みを分ける音がした。
動物でもいるのかと思い音がした方を見やれば、動物にしては大きく、人間にしては小柄な影が動いていた。

か?何故だか生まれた興味と不思議な感覚に動かされるまま足を近付ければ、
なるほど小柄な人間がうずくまって茂みで何かをしているらしかった。

なに、してるの」

傘もささずびしょ濡れになったその丸まった背中に奇妙な胸の騒つきを感じて。
うまれてくる疑問と可能性を否定して打ち壊しながら
早まる鼓動に目を背け、恐る恐る声をかけた。

「っ!

びくり。小さな肩を大きく揺らして。
余程集中していたのか、近付いた俺に全く気付いていなかったらしいびしょ濡れの人間は、大きな苺色の目を見開いて勢いよく顔をあげた。

「魔法使いさん

ああ、ほら、やっぱり。
びしょびしょの無花果色がだらりと垂れ、桃色の頬は青白く、苺色の瞳が悲しく歪んだその姿に、
ここで何してんのとか、何でびしょ濡れなのとか色々言いたい事はあったけれど、最初に出てきた言葉は、「やっぱり」なんてそんな言葉だった。

「ヒカリ、何してる?」

彼女を前にそんな事しか言えない自分とか、びしょ濡れの彼女に何が出来るのかわからない自分にも苛立ちを感じたけれど、
俺の問いに何も答えず俯いた彼女に、焦れったさを感じた。

つい先程まで心のどこかで捨て切れずに待ち望んでいた彼女との会話は、どうしても雨が邪魔をする。
彼女の顔は、すっかり 濡れた無花果色のカーテンに隠された。


ばたばたばたばた。黒い傘に当たる雨の音が喧しくて。

いたたまれない。

なにがどういたたまれないのか上手く言えないけれど、この状況にただそう思った。

 

「何、してるの」

 

喧しく続く雨の音の中、しかしそれでいて感じる静寂が、ひしひしびしびし縄のように心に食い込む。

心地よさの対極にあるような沈みきった音の世界にもういちど同じ言葉を投げ出せば、意図せず強い語気になってしまった。

 

「…て、しまったんです…」

「…え?」

 

何故だかとても久々に聞いたような気がした彼女の声は弱弱しく、ぱしぱしと雨を受け音を鳴らす草を握りしめる彼女の手元へぽすんと落ちた。

泥だらけになったその手を見つめながら促すように聞き返せば、顔を上げない彼女は先程より強く同じ言葉を繰り返した。

 

「失くして、しまったんです…!魔法使いさんにもらった栞を…!

 

破裂。

一言で言うならそのような。

しばらく停止した頭の中で破裂音が響いて、ぐるりぐるりと色々な感情や言葉が脳内を駆け巡る。

どきどきどきどき

傘を握る手は冷やりと汗ばんで、速まった鼓動に隠し切れず眉を寄せる。

 

…栞…?なんだ?何のことを言っている?彼女は俺が渡したことすら覚えていない物を延々と探し続けていたと言うのか?この雨の中?こんなにびしょ濡れに震えながら?

そんな、そんな馬鹿なこと―

 

「せっかく、せっかく魔法使いさんがくれたのに…!大切に、大切に使うって言ったのに…!

「―!

 

―あぁ、あれか

一つの心当たりが背中を駆け上って脳に衝撃を与えた。

 

あれは確かいつものように昼下がりに俺の家でテーブルを挟んで二人コーヒーを飲んでいた時、ヒカリが積まれた本に手を伸ばし、ある一冊を開いた。その時はらりと栞が落ち、何故だか彼女はとても興味を示しやたらとその栞をかざしてみたり眺めたりした。

気に入った様子だったし、別にいらない物だったので、ほとんど気まぐれのようなもので「あげる」と言った栞。

彼女は驚いた後嬉しそうに頬笑んで、「大切にします!」と言った。

あんな、あんな些細な事、

柄すら思い出せないような

あんな些細な物を

彼女は覚えていて。

社交的な決まり文句を忠実に守ろうとして。

 

ぐるぐるぐる。

わからない。

わからなかった。

彼女という人間が。彼女の考えが。

 

正直になってみるならば、俺の臆病な防衛本能が、

浮かぶ一つの可能性を信じたくないだけだった。

 

「魔法使いさんにもらったのに…!!

 

ばたばたばた。

傘にあたる雨の音は心にまで鳴り渡って。

下らない防衛術を剥ぎ流し始める。

 

大音量の雨音の中でも確かに聞こえる嗚咽をもらして泣く彼女は、ひくひくと震える丸まった背中しか見えないくらい地に伏せていた。

彼女の握りしめた指の隙間から飛び出る泥草にぼたぼたと涙や雨が滴る。

 

「――!?

 

謝罪の言葉を落とし始めた彼女に傘を差しだせば、急に世界は静かになった。

驚いて顔を上げた彼女の髪から雫がはね、苺色の瞳はまるで食い付くように俺を見た。

 

さああさああ

草に当たる雨音はとても小さくて。

何十年振りに浴びた雨はそれほど不快ではなかった。

 

雨みたいだと思った。
陽射しのように柔らかなとか、そんなものじゃなくて
白い雲から激しく全身に打ち付ける。

彼女の愛はそんな雨みたいだと思った。

 

「まほ…つかいさん…」

 

あぁ、いつからだろう。

俺は、こんな風に真っ直ぐに 彼女の目を見たことがあっただろうか?

 

馬鹿だな、馬鹿みたいだ。

 

「まったく…馬鹿じゃ、ないの…?」

 

彼女の目を見れば、わかった事なのに。

 

「そんなもののために…びしょ濡れになって」

 

きっと俺は、恐れていたんだろう。

全てを表す目を見ることを。

彼女のそれに、嘘や拒絶が見えてしまう気がして。

 

あぁ、馬鹿だな、馬鹿みたいだ。

 

「で、でもっ…!!

「そんなの…いらないでしょ?」

 

俺の一言に顔を歪ませる彼女に

びしょ濡れになってまで栞を探す彼女に

嫌いな奴と笑顔で話すなんて器用な事、

こんな不器用でわかりやすくて人を疑うことを知らない彼女に

こんな些細な事に一生懸命になる彼女に

出来るわけないじゃないか――

 

「私には…大切な物なんです…!!

「必要な物では、ない、よね」

 

歪んだ表情をさらに歪ませた彼女に微笑みかければ、するりと驚きに近い表情にかわる。

 

打ち付ける雨は静かに土に染み込む。

それは、強く激しく打たれているはずなのに 優しく、温かい。

そんな雨だった。

 

「だって、いてくれるんでしょ?」

 

 

 

幼い頃、歩いても歩いてもどこへ行っても、お月様がついてくるのが不思議だった。

きっと俺を見守ってくれてるんだろうなんて、可愛くて悲しくて可愛そうな勘違いをして。
今では何の疑問も持たないし、それがどんなに間抜けで幼稚な考えだったかわかっても

それを疑問に思ったことも、勘違いをしていた事も無駄なことだなんて思わない。

 

 

 

「ずっと、そばに。」

 

 

だってそうでないならば、きっと俺は馬鹿なままだったから。

 

正悟

-正しいとか誤りとか悟りとか-

 

 

 

 

 

きっと、そうやって生きていくものなんだと思う。

 

 

23.03