雨が降って花が咲いて、太陽が出て月が出て。
冬の陽射しは粉が降るようだ、といつだったか彼女が言っていた。暖かな、と言っても手先の冷たいやんわりと明るいだけの朝に、吐き出した息は白く煙って目の前をぼやけさせながら消えていく。空気に色がつくのだと思うと、何だか少し珍しいものを眺めたような気になって、もう一度はあと吐き出してみる。それはやはり真っ白に曇って、すぐに見えなくなった。
「魔法使いさん」
ぱたぱたと駆けてくる足音に気づいて振り返れば、待ち人は存外すぐ近くまで来ていた。ヒカリ、と声をかける前に呼ばれてしまい、動かしかけて目的を見失った唇で微笑ってみる。彼女は歩調を緩めることなく傍へやってくると、ようやく足を止めて二度三度大きく息をつき、それから少し申し訳なさそうな顔になって言った。
「おはようございます。ごめんなさい、待たせましたか?」
「……いや、さっき着いた。お早う」
「……本当ですか?」
特別気の利いた嘘をついたわけでもなくて本当に先ほどここへやってきたのだけれど、彼女は疑うような視線を向けて、それから何か名案でも思いついたように俺の手を掴んだ。けれども、すぐに不満げな顔になって呟く。
「……冷たい……」
「……ヒカリもね」
「これじゃ、分からないですね」
指先の冷たさで大まかに時間を計ろうとしたらしいが、その作戦はあまり成功したとは言えないだろう。先に着いてこそいたが家を出てここ、時計台の下までそれほど距離のない俺と、後に来たもののあの坂の上から歩いてきた彼女とでは、どちらも恐らく家を出た時間に大きな差はない。
同じくらいに冷え切った指で手のひらを掴んだり裏返したり、頬を膨らませていつまでもそうしている彼女に小さく笑って、その手を繋いでみる。一瞬驚いたようにこちらを向いたものの、すぐにはにかむように微笑って、彼女もそれを握り返した。
「冬の朝って、好きです」
「……そうなんだ?」
「はい。空気が深い、みたいな気がして」
ふらりふらりと有耶無耶に霧を散らかしたような午前の道を、整いきらない歩調で歩いていく。間で前後に揺れては戻る繋いだ手は、風に晒されて冷えていくばかりだ。そのうち凍って解けなくなると物の例えのように思ってみて、けれども案外それでもいいと本心から思った。右手は俺の手があって、左手は彼女のほうが空いている。たかだか散歩に行くくらい、それだけあれば何も困ることはない。
「……春は?」
「好きです、暖かくて」
「……夏」
「綺麗ですよね、水が眩しいのとか」
「……秋、も?」
「いいなぁって思います、落ち着くでしょう?」
解くのはどうせ、船着場を回って灯台のふもとまで行って、教会広場のベンチで休んで、そうして俺の家の暖炉の前へ着いてからだ。答えの予め予想できていた質問だったが、どれも好きだと言うのではなくてすべてに一つずつ答えるのが、なんだか彼女らしいなと思ってしまった。同意を求めるような響きにそうだね、と答えれば、はいと笑って足を止めるからつられるようにして立ち止まる。桟橋の上から眺める海は、彼方で空と交じり合って銀を零したように揺らめいていた。
「――――――」
眩しい、ただし直視することのできる眩しさだ。広いな、なんていう子供のような感想を、どちらに抱いたのか自分でもよく分からない。日の沈んだ後の景色ばかりを見慣れていた俺にとって、それは当たり前に知っているようで、けれどもどこか真新しい景色だった。空はこんなに青かっただろうかと、ぼんやりと思ってから隣を見やる。
「……寒く、ない?」
「不思議と、それほどでも」
「……俺もだ」
問いかければとうに感覚の鈍るほど冷えた手がぎゅっと握り返されて、空気が笑った気がした。
雨が降って花が咲いて、太陽が出て月が出て。それでも変わらない。
「……行こうか?」
「はい」
隣に、彼女がいるということだけが。まったく同じ光景の二度とない毎日の中で、それだけは春夏秋冬、晴れの朝も雨の夜も変わらない景色。
桟橋を戻って広々とした砂浜を歩きながら、ふいに思う。奇跡のような邂逅というものは、あるのだ。例えどんなに広い、この世界だって。
空の下
(青く澄み渡る手のひらにて)
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