空と海の間を繋いで埋めるように昼前から影を落としていた霧が、海の水位を上げていないかと


湯呑で手を温めながら窓を覗きやれば、霧と共に空中を浮遊するものに気付いた。


それはそれは綺麗な、哀しい歌声だった。どこから聞こえてくるのか、まるでヴェールのように霧の間を縫って広がっていた。


思わず海に一番近い戸口から外に出れば、それは着水しそうでいて海面を滑り、はっきりと耳に届いた。


セイレーンかと思ったその歌声は、声の主が俯いたことによって途切れてしまった。


なびいていたヴェールは断面から着水し、沈む。


波に遊ぶ白い欠片は海のあちらこちらで跳ね上がった。

 

「ヒカリさん」

「、ああ、タオさん。」

 



俯いた歌声の主に呼びかければ、軽く首をこちらに傾げ私の姿をとらえた。


さして驚いたふうでもなく口許だけで笑って答えた彼女に少しだけ歩み寄る。

 






ふくらはぎまで海につけて立っている彼女の足に波がくだけ、白く弾け広がる。


波があたるたびにぐらり揺れる細い身体に、言い知れぬ不安がぞわりわきあがる。

 



「ヒカリさん、何してるんですか?危ないですからこちらへ…」

 



ざぶり、草履を履いたまま波に足を入れれば、晩春とはいえ冷たさに顔をしかめる。


思考を巡らせる前に思わず足を海に踏み出した先までの勢いを殺し、慎重に一歩ずつ近づいた。重たい海水は足にまとわりつき、踏み出すたび冷覚が刺激され体が震えあがった。

 


「ふふ、大丈夫ですよ。変な事は考えていませんから。」

 


それより、寒いですから陸に戻ってくださいと口許から離れない笑顔を変えないままに彼女はそう言って後ろに下がるようにとこちらに手をかざした。

 

「…」

「信じられませんか?まあ、そうでしょうね」

 


躊躇いと沈黙から読み取られた私の心情に、彼女は自嘲するようにわらった。

 

「溶かしていただけなんです。残酷で可哀想な、恋の物語のラストを。」

 


そういって右腕を前に突き出した彼女が手を開くと、いつから握られていたのか。はらり。白い花がはらはら零れた。


白く可愛らしい
5枚の花弁をつけたその花たちはぽとりと海面を叩き、沈み行く。


小さな飛沫と波を立てたそれらは、別れの挨拶をするかのように波を踊り、白い歌の残骸に引き込まれあっという間に見えなくなった。


その果物の形も色もまるで模していないのに、なぜだかその花は


手にとって鼻を近づければきっと林檎のにおいがするだろうと


そんな気がした。

 



「はい、これでおしまい。」

 



幻嗅を放した手のひらを、もうなにも掴むまいとでも言うようにきつく握り自身に引き戻した彼女は、首をこちらにふりむかせ笑った。

 



「ヒカリさん、」

「あ、晴れてきましたね…、」

 



尋ねたいことが、たくさんあった。


彼女はなぜこんな時期に海につかり立っていたのか。


ここで何をしようとしていたのか。


今の行動にどんな意味があったのか。


そして、彼女の放った言葉の意味は。


しかしそれらの疑問のどれも言わせまいとするように私の声を遮る彼女の背に、それらは喉の奥の方にしまっておこうと


そう思わされた。

 


そうして彼女の視線を後ろから追うように海に向ければ、真っ赤な光が零れるように海を染めはじめていた。


ああ、もうそんな時刻になったのかと思うと、忘れていた自分の状況に意識が戻り足の感覚が吹き返す。海につかるそれは冷覚を矛盾させたのか、それとも体温が奪われてしまったのか。もう海水を温かいと思っていた。

 

もうすっかり霧も溶け、全身が朱色に染め上げられる彼女に目を向けると、まだ海の遠くの方を見つめているようだった。


いつもは穏やかに丸い水平線が、今日は歪に荒れている。

 

 

「ヒカリさん。戻りましょう。」

 

ざざん、と音を運ぶ潮風に揺れる彼女の髪が朱色に光り遊んでいる。


声が届かないのか、小さな反応も見せない彼女に、もう一度同じ言葉をかけた。


けれど動く気配はなかった。

 


小さく息を吐き出し、ざぶざぶと波を切りながら彼女に近づいて行ってみた。


そうしてすぐはすに構えた後ろに立ってみると随分と深いところに立っているのだと気が付いた。

 


「タオさん」

「、はい」

 


私が近づいてきたことを音や気配で感じていたのか、歩みを止めたところで背中越しに彼女は声をかけてきた。


先ほど沈んだはずの、幻嗅であったはずの、林檎の香りがする。

 

「タオさんは海を愛していますよね。」

 


変わらず背中越しにかけられた突拍子もない問いに、しばし考えを巡らせてしまったが


純粋に問いに答えるべきだろうと思い、はい。と応えた。

 


「そうですよね。」

 


そう言った彼女の言葉は、今日―少なくとも私と出会ってから―初めて、揺れた。


ごくわずかに悲しみに落ちた声に、何か私の答えがまずかっただろうかとうろたえた。

 



そうして再び沈黙に戻ってしまった彼女に、どうしたものかと眉を下げる。


林檎の香りはもうしない。やはり気のせいだったのかもしれない。

 

 


二人の間を埋める波の音は押しては引いて、押しては引いて。


絶えず繰り返すそれは、波をきらきらとはしる朱い光を押し沈めては作り出す。

 


「ヒカリさん。」

 


もうどのくらいの時間が流れたのかわからない。


もしかすると感じていたほど長くはないのかもしれない。


けれど体力的に見ても、いくら足だけとはいえ長い時間海に浸かっていた彼女をこれ以上海に浸からせることはできない。

 


「海は思うより危険なものです。もうあがりましょう。」

 


もう何も反応がなくとも、拒否されても、連れて戻ろうと決めていた。


ゆえにそういって腕を掴もうと手を伸ばした時だった。

 


「人の魂というのはどこに行くのでしょうか。」

 


彼女の声がはっきりと、強く鼓膜を揺らした。

 


「、」

 


思わず伸ばした手を引き、覗くように窺った。


けれど厚くかかる彼女の髪がそれを阻む。

 


答えを出すことができないものであったことと


彼女のそれが問いかけではなく語りかけのようであったことから


先の言葉に返答することは躊躇われ、ただ彼女の言葉の余韻の中にある次の言葉を待った。

 


まただ。


林檎の香りが、した。

 


くるり、振り向いた彼女は泣くのをこらえているのか、笑っているのか、


頬の使い方がわからないように口角を上げる彼女は、歪んだ表情のまま言葉を放った。

 


「きっと、天国には神さまはいない。」

 

息を呑むような不意を突かれた言葉に、意味がわからないと思いながら心臓がえぐられるような心持になった。


そうさせたのは他でもない、苦しそうな、数刻前にこの海に響いていた歌声のような


儚く強く美しい彼女の声色だった。

 


気付かぬ間に高さを増していた波がぐらり彼女の身体を攫おうと高く飛沫を跳ね上げ散らした。


「、危ない!」


咄嗟腕を掴んだ瞬間に、いっそう強く林檎の香りが鼻をかすめた。

 

ああ、なるほど、林檎の香りは彼女からしていたのかもしれない。


そんなことを、彼女の白い手袋は先の落とされた花かと錯覚するほどはっきりと濃い香りを感じながら思った。

 



ぽすんと簡単に胸に収まった彼女の細い身体に、ふうと息をついた。

 



押し寄せた時の轟々とした音から少し身を引いたような音を立てて波がかえっていくのを確認してから、腕の中背を私に預けうつむく彼女に少しきつめの声色をかける。

 


「わかりましたかヒカリさん、海を甘く見ていては―…」

 


彼女を見やり思わず途中で途切れた言葉を、私は繋げる気にはならなかった。


きつく唇をかみしめながら声を押し殺し、ぼろぼろと涙を流す彼女があまりに痛ましかったことと


その涙が今自分の身が危険に晒されたからではないということくらい私にもわかったから。

 


「、陸にあがりましょう。」

 


そう声をかけて彼女の身体を引きながら陸に向かって歩き出した。

 






腕の中でぐたりと頭を垂れ、たっぷりとした髪に朱い光を小刻みに揺らす彼女に、もう何も尋ねることも、叱ることも、声をかけることもできなかった。

 








ただ、彼女の「永遠に交わらない愛すら許されるのに、なぜ愛することが許されないのか、」と恨めしげに、哀しげに零されたその言葉がやけに耳に焼き付いた。

 









捨てる神あれば悲しみの雨

-その晩哀しいほど澄んだ星空に雨がかかった-

 





山を愛するように

海を愛するように

彼を愛しただけなのに。




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