徳というは得なりとて、徳を好む人にあるなり―明恵
狂ったように咲き誇り嘘みたいに儚く散りゆく大桜に紛れ込んだ、菫の花かと思った。
「コトミ…?」
夜には住民たちの声で埋め尽くされる花祭りの日の教会も、昼間のうちはいつだって静かだった。だからアタシはいつも昼間にここに来るのが好きだった。ひとり静かに威大な桜を見上げれば、何か優しい感情が、胸にじんわり染み込んでくる。そんな気がした。
だから1人だと思っていた空間に彼女がいるなんて思ってもなかった。
(…え…コトミ…よね?)
呼びかけたつもりでいた言葉はただの呟き程度にしかならなかったようで、立ち並ぶ桜の木に埋もれて広場の隅に立つ彼女には届かなかった。
それ以前に、ずっと俯いたままでこちらに気付いているかどうかすら怪しい。
(珍しい。何してるのかしら…)
彼女が仕立て屋以外にいるところなんてとても久しぶりに見たから、彼女に向けたある感情を抜きにしても興味があった。
単純に考えるならばアタシとおんなじで桜を見に来たのだろうけれど、
(…俯いてるし)
そういう様には見えなかった。
「コト…―!」
やっぱり話しかけてみよう。そう思い声を出した瞬間に、焦点を絞り切った視界に想定外のものが飛び出してきた。
「ゴメンなコトミさん!待たせちまった!」
「大丈夫…ですよ、ユウキさん」
(え…)
まっしろになって固まった頭がそんな音にもならない言葉しか紡がないから。何をしたらいいかわからない手は彼女に向けて伸ばされたまま動かないし、足は太木になったみたいに揺れもしない。
(ユウキ…?)
彼女が嬉しそうに紡いだその言葉を反復すれば、ぞわりと何かが込み上げる。その名前に関する記憶は浅く、話したことだってそれほど多くない。けれど、確かに知っている。島に来てたった数日でこの島を虜にさせた。アタシの大事なものを、何年もかけて築いたものをさらりと奪った。アタシの中で黒い根を張った男。
―「ホントにいいヤツだよな、根性もあるし」最初にそう言ったのは、オセだった。彼が来てから口を開けばそればっか
りで。その言葉が指し示すのは必ずユウキの事だった。それ以来彼から「今度鉱石持っていくから、宝石だったらお前にやるよ」なんて言葉聞かなくなった。最初はそんな小さな少し悲しいくらいでしかない嫉妬だったのに。いつの間にか町できく噂は全部彼のもので、女の子どころかないと思っていたチハヤまで取り入れてしまった。「キレイだよね」と島で紡がれた言葉はいつだってアタシのものだったのに、いつの間にか彼のものになってしまっていた。
友達が知らない人の名前を嬉しそうに語る。そんな小さな嫉妬心が島級に大きくなってしまった。
「彼みたいな子、ここで働いてほしいものですわ」とミオリさんが笑った時は、もう何もかもがお終いだと思った。
「それにしてもコトミさんは可愛いよな!髪もきれいだし」
「ユ、ユウキさん、そんなお世辞言わないでください…」
楽しそうに繰り広げられる会話をする2人はすぐそこにいる筈なのに。
アタシとは別の世界にいるみたいに届かなくて、アタシの存在なんてないみたいに世界が進んだ。
「お世辞なんかじゃねぇって!ホントの話!」
「も、もう、恥ずかしいです…」
ふわり、柔らかそうな髪を顔を真っ赤に俯かせて耳にかけた仕草にぐらりとする。恥ずかしそうにはにかむその顔も、照れる仕草も、長年一緒にいたはずのアタシが知らないものばっかりだった。
じゃり。無意識に下げていたらしい左足が砂に音を立てさせた。
そんな小さな音じゃ何も変わらない世界に、アタシは逃げ出すように走った。
あぁ、あぁバカみたい。
アタシは彼に嫉妬する権利さえ持っていなかった。
きれいだった。彼はとても。
外面だけじゃない。なにも飾ってないはずの彼は、否、飾らないからこそ滲み出る性格はとても美しかった。
つらつらと出る甘い言葉はどこにも嘘らしさがなくて、きらきらと輝く目は嘘をつける瞳ではなかった。
あぁ、バカみたい。
思わず漏れ出た笑いは何とも哀しくて、からからに乾いていた筈の心から冷たく涙が零れた。
逆に。そう思った。
逆に、良かったのかもしれない、と。
彼なら彼女を幸せにできる。
彼なら彼女を泣かせたりしない。
アタシにはできないことが彼には出来る。
アタシじゃなくてユウキだったのは当たり前のことで、良いことなのだ。
だって、アタシには彼女をいじめるような、幼稚な事しかできないから。
ぼろぼろ流れる涙は、吹き荒れる桜の花びらのように足跡を残して散った。
得が欲しくば徳となれ
大事な事は、結局そう。
→