「好きです、魔法使いさん。」

 

その感情を、壊す言葉が欲しかったんだ。

 

 

 

 

「好き、なんです、」

 


ぎゅうと自身のスカートを握りしめて顔を伏せる彼女のその前の言葉に振り返ると、真っ赤な夕陽に目が眩んだ俺に、その言葉を振り絞ってきた。

会話はキャッチボールだとよく言うが、なるほど今のは絶妙なパスだっただろう。確かに俺の手元に寸分の狂いもなく届いた。恨めしいほどに。しかしボールが俺の手に渡ってきてしまった時点で、それを返すかしまうか、捨ててしまうか、俺の自由になってしまうことを、彼女は気付いているのだろうか。

 


「魔法使いさん」

 


俺がそのボールを捨ててしまいかけていることに気付いたように、真っ赤な顔をあげて俺の名前を呼んだ。

その時俺はどんな顔をしていたのだろう。

俺の目とあったそれはぐにゃと歪められ、今にも雫をこぼしそうになった。過飽和だ。最初からそんな想いも、彼女にとって過飽和だったんだ。

 

 



どこで間違えたのだろう。

どこでこんなことになってしまったんだろう。

逃げるように俺は記憶をさかのぼる。

 

 



今朝は、いつも通りだった。

コーヒーを飲みながら読書で時間をつぶした。

昼も、いつも通りだった。

ヒカリが来て、昼食を作った。

夕方は、2人でサーカスに出かけた。

 


これか、いや、でもここでもいつも通りだったんだ。

 



その後だ。

ついさっき、帰路に足を乗せた時。

隣にいないと気付いた時には彼女はもう歩みを止めていて、俺の背中越しにあんなことを言ったんだ。

ああ、やっぱりそうだ。

あのサーカスがいけなかったんだ。

 



 

「ヒカリ、」

 

ボールをかざす。でももうこれは君には戻らない。

 

「吊り橋効果、って…知ってる?」

 

 

ぽーん。地面に落ちた見えないボールは、一度だけはずんで斜面を下って行った。

 

「…え」

 

帰ってきた答えが自分の求めていたものに当てはまらないからなのか、言葉の意味が理解できないのか、もしくは理解できてしまったからなのか。唐突な俺の言葉に戸惑うように声を発した。

 


「吊り橋効果だよ…好きでもない相手と、吊り橋を渡ると吊り橋への恐怖に上がる鼓動を、相手への好意だと勘違いしてしまう。人間の脳の、愚かしい誤作動だよ。」

 


言葉の説明を求められたわけでも、もう一度告げてほしいとせがまれたわけでもないのにまるで言い聞かせるように俺は語った。彼女が次に紡ぎ出してくる言葉を阻止しようと、まくしたてるように言葉を繋ぐ。伝わらなくていい。そんな気持ちもあった。もうボールはない。今君と俺は「個」と「個」なんだ。

 


「今日、サーカス、見たでしょ…?それと同じだよ…サーカスに、はしゃいだ、だけ。」

「ホントは俺にときめいてなんかないんだ。はやく気付いた方、がいい。その方が君のため。」

「だから、好き、なんて、勘違い。」

 

 



一気に言い終わると、俺に真っ直ぐ向けられていた瞳に揺れていた雫は、一度降ろされた瞼に頬へと押し流されていた。

俺の言葉を反芻して打ち消すように首を小刻みに振りながら一歩づつ後ろに下がっていった彼女は、突然に俺の横を抜け駆けて行ってしまった。

 


これでよかったんだ。

これで。

彼女のためにも。

俺のためにも。

 

湧き上がる想いと感情は、体の奥に押し込めて、けしてもう見ないふりをして。

 

 


 

 

 

「ただいま…」


 

見慣れた家の外装が、やけに暗く影っているように見え、ついと目を伏せながら扉を開いた。誰もいないなんてわかりきっているのに、どこか何かを待っていた心に、家中に広がる闇が刺さった。

煮え切らない自分に苛立ちと悔しさが襲い、小さく一つ息をつく。

と、後ろ手に扉を閉めようとしたところ、急にそれが阻まれ、扉を開こうとする力が加わった。

 



「、ヒカリ…」

 


驚いて見ると先程自分の言葉に絶望し目が醒めたはずの彼女がいた。必死に肩で息をして、顔を上げることもままならなかった。

 



「どうし…」

 

どうしたのかと、尋ねようとしたその言葉を遮るように、俺の視界がそれで埋まってしまうほどのところに一冊のノートをつきつけた。

まるでもう俺には何も喋らせまいとするような気迫すら感じられた。

 

「これ…みてください」

 

おそらく全力で駆けてきたのだろうと思われる彼女はぜいぜいと息を荒げ、振り絞るように、強くそう言った。

 

 

とりあえず座って、と中へ促すと、ようやくもう理不尽に追い返されはしないと思ったのか扉から離れ呼吸を整えながら中へ入った。

 

向かい合って椅子に座ることが気まずくて、コーヒーをいれようかと最低限の物しか入っていない小さな食器棚に手を伸ばすと、

「いいから読んでください」

と怒号にも似た響きの声が俺の背を跳ねさせた。

 


 

観念したような心持で向かいの椅子に座り、ちらと彼女の顔を見る。怒ったようにも吹っ切れたようにも気合を入れたようにもとれるその顔はまっすぐ俺を向き、凛と伸ばされた腕は先程俺に突き付けたノートを机に差し出していた。

 

訝しげにノートと彼女の顔を交互に見ながらそれを手に取ると、表紙には可愛らしい文字で「日記」と書かれていた。

 


「日記」という言葉に「見てはいけない」という条件反射が働き、思わず動揺にそれを落としそうになったが、見開いた目で見た彼女の顔は先程と変わらず、早く見ろとでもいいたげな表情をしていた。

 


見てもいいのだ、と確認をして、―本当は見なければならないという覚悟を決めるところなのだが―そっと表紙を開く。

そこにはこの島に、この町に来てからの何気ない日常の事が書かれていた。

(なぜ、こんなものを見せようと思ったのだろう、)

そんな思いが胸に浮かんだ時、ついにその真意がわかるページに辿りついてしまった。

 

○月×日 魔法使いさんに会った。

 

どきり、とした。

ただ自分の名前が出てきただけなのに、どこか怒られているような、評価がつけられているのではないか、というような思いがよぎった。

けれどそこには「いい人だった」という当たり障りのない―けれど俺にはもったいない―言葉でしめられていた。(なんだ…)と思い、少し気の抜けた気分でページをぱらぱらとめくっていると、また自分の名前が目に飛び込んできた。

 



○月×日 今日は魔法使いさんが微笑んでくれた。嬉しかった。

 

どく、一つ速くなった鼓動に気付かないふりをしながらぱらぱらと急ぐようにめくると、そこから何度も「魔法使い」という文字が目に飛び込んでくるようになった。

そして、あるページでついに柔らかな羊皮紙をめくる俺の手は止まる。

 


○月×日 魔法使いさんのことを考えるとどきどきする。ユウキに相談すると、これが恋なのだと言われた。なんだか世界が明るくなった気がする。

 


「魔法使い」「どきどきする」「恋」そんな単語がまるで光のように浮かび上がり、俺の目の前を飛び回った。

いや、そんな、まさか。

焦った心はどんどん鼓動を速くして、聞こえてしまうのではないかという思いにばらばらばらと意味もなくページをめくる。

 

いや、きっと、これも、なにかの間違いで―…

 

そんな否定の言葉を並べ立てた頭に、ぽんとヒカリの声が飛び込んでくる。

 

「これでわかりましたか、私は、魔法使いさんが好きなんです。」

 


聞こえなかった。そんな思いでぱんっと必要以上に強く音を立て日記を閉じた。

目は合わせられない。ページをめくる音すらなくなってしまったこの空間に、やっとだとでも言うように、再び彼女の声が空気を震わせた。

 


「サーカスなんて関係ないんです。サーカスなんて行く前からずっと好きだったんです。私の明るい世界を、その日々すべてを、なかったことにしないでください」

 

「サーカスの演目は覚えていませんけど、サーカス中に魔法使いさんが話しかけてきてくれたこと、表情、仕草はみんなみんな覚えてます、サーカスより、サーカスなんかよりずっと魔法使いさんにどきどきしていたんです」

 

 

返事は、しない。いいや、できない。

 

「今日サーカスじゃなくったってどきどきしてました。

そんなのただの口実で、ただ一緒にいたかったんです

これだけ見せても、これだけ言ってもわかってもらえませんか。」

 

 

普段大人しい彼女からは想像もつかない強い語気、つらつらと途切れなく並ぶ言葉、その意味。

そしてついに見つけてしまった、その声の震えに、

俺は彼女に顔を向けた。

 

やっと目があった、そんな顔で彼女の肩から抜けた力は、その涙腺の強張りまでも奪ってしまった。

 

 

「告白が断られるなら諦めもつきますけど、想い自体が否定されてしまったら私、私、悔しくて、もう、どうしたらいいんですか…」

 




ああと声を上げて泣き崩れた彼女に、ぼとりと力が抜けた腕から日記が落ちた。

膝を打った後床に広がり崩れるその姿は、まるで。

 


どん、と背もたれにあたった背中から、体に力が入っていないことに気付いた。

そうだ、俺は、とんでもないことをしてしまったんだ。

 


目の前で泣き崩れる彼女は、俺を好きだと言ってくれたんだ。

それを俺は、自分の勝手な狭い了見でずたずたにしてしまった。

彼女にここまでさせてしまった俺は、今、ここで動きださなくてどうするんだ。

 



 

「ヒカリ」

 


がたん。ただ今は彼女のことを思って。

立ち上がるということに意識を向けなかっただけで、加減も感覚もめちゃくちゃになり椅子を倒してしまうなんて、全く知らなかった。

良かれと思ってしたことも、ただの自分の勝手な押し付けで、相手を傷けてしまうだなんてことも。

知らなかったんだ。

そんなことで、許されるなんて思っていないけれど。

だけど、

 


「ごめん、」

 


許されるなら、



 

「俺と一緒に生きてくれないか」





 


 

 

 


 

 

 

 

 

こんな感情を、砕く言葉を探していたんだ。

けれど壊したのはその感情ではなく守りたいもので、

本当に壊すべきものはその感情ではなく俺が勝手に作り上げた壁だったんだ。

ああ、あの時貰った言葉を、今君に返そう。

 

「好きなんだ。」






 

 


 

 

 

 

 

 

 

「だからそう言ってるじゃないですか」

 

そう笑った彼女は嬉しそうに泣いて、俺はその安心した顔から涙を拭った。

 

 

 

 

 

不必要な頭の回転

-時に想いの邪魔をする‐

 

 

 

 

足元に帰ってきたボールを、高く空へ投げる。

必ず君に、届くように。



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