最終巻まで読んでから読んでいただければ幸いです。
この言葉が適切なのか微妙なところなのですが、いわゆるネタバレを含んでいます。…ネタバレ…ですね、です。
とっても捏造しています。
ああ、人魚姫。
「前世の君」よ。
なぜその刃で、想いまで切り裂いてしまわなかったのか。
「、大路?」
どこかで居眠りをしているであろう夢路を探しに、図書室の扉を開けば
熱心に何かを読んでいる彼女に出会った。
「あ、隼人先輩。」
思わず呼んだ名前に、ぱっと顔を上げた彼女は、短い黒髪を揺らしながら笑った。
その笑顔につられるように足を踏み入れれば、埃っぽい匂いに全身が浸かる。
どうやら彼女しかいないようである図書室は静まりかえっていて、彼女がかけている椅子や向かっている机の、木の呼吸までも聞こえてきそうだと思った。
「どうしてこちらに?」
「俺は夢路を探しに…―、何を読んでるんだ。」
「え!あ、えっと、」
近寄る俺から目を逸らさなかった彼女は、手元を覗き込んだ俺の言葉に小さな驚愕の声をあげ、慌てたようにそれを隠した。
けれどそのほんの少しの間は、手元のものを理解するのに充分な時間があった。
「人魚姫―…。」
彼女の長い指でも隠せない、大判の絵本に描かれたそれは、紛れもない「人魚姫」。鮮やかに記憶が通りぬける 前世の俺の姿だった。
「ああ、やあ、これは、ですね…。」
己が目を疑うように開きそれを凝視する俺を、ちらりちらりと盗むように視線を行き来させる彼女は顔を赤く染めながらたどたどしく言葉を探る。
「俺の話だ。」
懐かしさと苦しさと愛しさと。押し寄せる様々な感情を奥歯で噛み、それを手に取った。
駆け巡り通り過ぎてゆく記憶を、静かに手繰り寄せれば、零れそうになるものが一つ、二つ。
「物語」となったこれに、描かれていないものはたくさんあるのだ。人間は、世界は、いつも「きれいなもの」を望んでいる。
どうしてこれを、と彼女に向けた視線に
自分でも熱を感じていた。
鼓動がいつもよりも早いのは、先ほど一瞬呼吸を忘れたせいだろうか。
遅れを取り戻すように疾る音は、この静まり返った空間で、響いてはいないだろうか。
「ああー…ええと、やはりその、」
恥ずかしさを隠すように笑う彼女は、俺の顔を一瞬見やり、一つ咳払いをしてから真面目な顔で俺に向き合った。
「前世で不実なことを働いておきながら、記憶を持ち越さなかった王子の役目は、きちんと前世の皆さんを…知ることだと思いまして。」
最後はやはり照れるようにはにかんでしまった彼女に、思わず目を伏せる。
真面目なのだ、彼女は。
突然「前世での責任をとってもらう」だの「誰か一人を選べ」だの、そんな身に覚えのない、現実味がないであろうことを寄ってたかって言われた彼女は、意味がわからないと撥ね退けることも、自分には出来ないと逃げ出すこともせず、真摯に向き合ってくれているのだ。
きっと、俺たちでさえどこかで目を背けている前世の「姫」たちごと、彼女は全てを大切に汲もうとしている。
黙りこくってしまった俺に、彼女がなんと思ったのかわからない。
けれど、彼女は静かに言葉を繋いだ。
「優しいですね。」
「、え、」
その言葉がどこに向いているのか、まっすぐ放たれた言葉を探るように顔を上げれば、
柔らかな笑顔と目が合う。
「人魚姫は、とても優しいです。自分のことよりも、愛する人の幸せを優先する…、ああ、隼人先輩なんだなぁって思います。」
ひとつひとつ、大切に紡がれるそれは、あの日全身を駆けあがった水泡のように激しく、それでいて水面の向こう、肌を包む光のようにあたたかく、
じわりじわりと心に溶ける。
ああ、人魚姫。
なぜ君は、想いまで切り裂いてしまわなかったのか。
「優しくなんて、ないんだ。」
意図してついた言葉ではない
零れるように自然に唇を震わせたそれは、小さな嘲笑を俺に残した。
「本当はそんな綺麗な話ではない。醜い感情だって、俺は持っていた。それに、そんな最後を選んだのも、あの人のためではない、」
長い自慢の髪を揺らして、仰いだ月が脳裏に浮かぶ。声を差し出してまで手に入れたかった彼、救おうともがいてくれる姉たちの声。
そして「物語」では消し去られた、真実の記憶
「あの人は、彼ではなかった。何を犠牲にしても手に入れようと思った「王子」、彼ではなかった。だから俺は逃げたんだ。魔女に消された彼を追って、無意味になった自分の将来から、目の前の運命から、」
「与えられた運命から、逃げただけなんだ―…。」
あらすじは決まっていた。そう思い込んで目を背けていた「人魚姫」の選択は、こんなにもはっきり真実を記憶している。
あの最後こそが与えられた運命だったと、転生した今でも卑怯な自分から逃げているのだ。
一番最後に自分が残したものは、笑顔ではなく涙だったことも、忘れた振りをしているのだ。
何度も、何度も夢に見た「人魚姫」は、いつだって泣いていた。
「物語」はきっと、彼を想って泣いているのだと、そんな白々しい言葉で描いてくれるだろう。
醜い部分は隠しておけばいい、きっと、自分もそう思っていた。
その筈だったのに―…。
一度蓋が外れてしまえば止まらない、小さな涙の海いっぱいに隠した想いは、溢れて流れて、俺の頬を濡らした。
「優しくなんてない、こんなにも、醜い―…。」
月の光さえ飲み込んでしまうような、真っ黒な海。
なんて醜い。
ああ、なぜこんな感情を持ち越してしまったのだ。
恋い焦がれる王子への想い、醜い感情、どうして君はそのナイフで切り裂いてくれなかったんだ。自分だけ泡になって消えるなど、なんて、ずるい―…。
太陽から逃げるように俯いた俺の頭に、懐かしい温度が触れた。
「やっぱり、あなたは優しいですね。」
―やはり、あなたは優しいね。―
耳に届いた声は、遥か眠った記憶の中、愛しい声を呼び覚ました。
はっと顔を上げると、包み込むような“温度”。
「彼の命の代わりに自らを差し出したことに変わりはないのに。あなたは尚も自分を責める。醜い心を醜いと言える。そんな人が優しくなくて、なんというのでしょう。」
ああ、これはあの時の―…。
―優しい歌声の貴女は、やはり優しかった。制限されてばかりの生活で、尚も自分はいけない望みを持っているのだと嘆くのか。貴女が優しい女性でなくて、何を優しいと云うのだろう。―
広い海の一部分、定められた範囲を越えて、岩場に上がってしまった。その達成感と、後ろめたさ、心細さに歌を一つ、天に打ち明けた朝だった。
出会った彼は、その背に背負った太陽のような人だった。
「―…おうじ、さま…か、」
「、え」
蘇った優しい記憶。とぐろを巻いた感情から目を背けるように蓋をし続けた「記憶」は、こんなにもいとしい感情を隠していたのか。
自然に口許に湛えた笑みと、すとんと胸に落ちた言葉を溢せば、間抜けな声を出して驚いた彼女が肩を跳ねた。
ああ、この感情は、むかしから知っている。
気付いてしまえばなんてことはなく込み上げてくる感情に、流れるように彼女の髪に手を伸ばす。
「なるほど、惹かれるわけだな。」
状況に追いつけないと言いたげに見上げる目が、みるみる見開かれ、耳まで赤くなった彼女のふさがらない口に思わず声を出して笑った。
「な、なにを突然、気でも狂いましたか!熱ですか!熱ですね!」
先までの彼女とはまるで違う、くるくると変わるその雰囲気も、懐かしい人を連想させる。
わかったさては変なものを食べましたねとまくし立て続ける彼女の手を取って、晴天を仰ぐように窓を開ける。
窓枠に片足をかけると、柔らかな空気が体を抜ける。
「行こう、大路。」
突然空気の動いた図書室で、ぱらぱらぱらとページがめくれる。
混乱を極めた彼女を腕に抱いて、あたたかな空へ強く窓枠を蹴った。
ああ、人魚姫、
君が握りしめたナイフを、振りかざさずにいてくれた。
ありがとう、精一杯前に進むから、
だからどうか、もう泣かないで。
足を返した人魚姫
-ナイフならすでに捨ててきた-
その日緒伽林高校に、彼女の断末魔の叫び声が響いたことも、物語はちゃんと記録してくれるだろうか。
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