この身体を動かすものが、翼でなくて良かったと思う。




「はい」



差し出されたのは毎年この季節になると彼女が持ってくる真っ赤な果実、ではなく。やたらと柔らかな手触りの長い布だった。



「なんだ、これは」
「えっ、知らないんですか」
「知っている。ものを訊いているのではない」
「ええ?」




じゃあ何だって何ですか、と。丸い双眸を余計に丸くして首を傾げ、彼女はその手に持っていた布をこちらへ押しつけた。アイボリーを基調に、所々橙の毛糸が混じったそれの名称くらいは知っている。マフラー、だ。もっとも、知識として知っているだけで実物は手にしたのもこれが初めてだが。





「これが何だかも分からないほど下界に無関心ではない。なぜこれを我に、と訊いている」
「え、だって……」
「?」
「……寒くないですか?ここ」





質問を噛み砕いて伝えれば、彼女はようやく納得したように頷いてそう問い直した。今度はこちらがえ、と言いたくなるのを喉元で堪える。寒い、とは。知り合ってもう三年目になるのに、今更訊かれることでもないと頭から思っていた。何から言ったらいいものかと少し悩んで、小さくため息をつく。




「……お前は、我がずっとここで暮らしているというのに、延々と同じ服を着て震えているとでも?」
「へ?……あ」
「言われてみれば、とでも言いたげな顔だな。言うなよ」
「い、言われてみれば。あっ」
「……はあ」





まったくこの者は、人の話を聞いているのかいないのか。人のことを気にかけているかと思えば肝心なことを考えていなかったり、熱心に耳を傾けたと思えば同じようなことを聞き返したり。まあもっとも今ではそれにもこちらが慣れてきたもので、呆れ顔のひとつで済ませられるようになってしまったのだが。
ごめんなさい、と言いながらもくしゃりと笑っている彼女を見て、何とも言えない気の緩みが押し寄せてきた。




「お前は、いつもそうだな」
「そう、ですか?」
「そう、だ。もう慣れた」
「?」




慣れて、馴染んだ。季節を跨いで柔らかに浸透していった彼女という感覚を、今ではもう爪の先から頭の先までが受け入れていて、拒む気にならない。いわゆる人間的な感情には例え興味を持ったとして、自分がそれを抱くことになろうとは思いもよらなかったのに、今ではそんな愛だ情だに両足が浸かっている。




「我はお前たちと違う。夏になった冬になったと言っても、気候をそこまで感じない」
「そういうものだったんですか」
「ああ」
「あ、じゃあ、もしかして」
「?」
「暑いですか?それ」





それ、と。少し寂しげな色を隠した目が追った先の、手のひらへ積んだままのマフラーを見やる。彼女の暮らす地上より幾ばくか涼しいのだという風が、金の髪留めもろとも髪を揺らして視界へ入り込んだ。ちらと視線を上げれば短く切り揃えられて結んでもいない彼女の髪は、自分のそれより風の影響を受け、まるで薄い風船のようだった。さらりと光を弾く無花果色から、目を逸らす。何の疑問もなしに晴れ渡る空は、そんな自分の些細な一挙一動さえも影にして、やたらと色濃く写し取った。





「……お前は本当に、いつもそうだ」
「え?」
「人の話はしっかり聞け。暑さも寒さも、お前たちほど感じないと言っている」




申し訳なさげな視線から引ったくるように、渡されたまま無造作に持っていたマフラーを適当に畳んだ。几帳面に編まれた毛糸の感触が、いつ何時も変わらない日光の温度に慣れた手首を滑る。そんな一瞬のことでは、温かいかどうかなど知る由もない。ただ少し、一拍遅れてから温いなとは思った。






この身体を動かすものが、翼でなくて良かったと思う。両足は交互に進める分だけ、考える力を残すものだ。






「……ふふっ」
「何を笑っている」
「いいえ、何でも!」






もしも翼だったなら、自分はきっとそれを断ち切ってここから飛んでしまうことだろう。そんな愚かな姿を晒すことにならずに済むということにおいて、初めて人間と同じ、不自由の多い姿をしていたことに感謝した。







灼け落ちる太陽

(恋に焦がれて自由落下)