人は、鳥にも花にもなれる。と、彼女は教えてくれた。



「大人達の考えって、私達とかけ離れてるわよね。」
舞姫はそう言って笑った。
ほら、子供の詩の評論も、国語の教科書の解釈も、私達と全然違う。私のぼろぼろな教科書を指しながら、穏やかに言った。そして、学校の存在意義についてもね、と笑った。
舞姫はいつも私の隣にいた。隣にいて、私に微笑んでくれた。
学校の存在意義は、勉強を学ぶためよ。そう言った私に何か言い掛けて、トイレ脇に呼び出された私を静かに見送った。
教室に帰ると、舞姫はいなかった。代わりにいつだってあの子が駈けてきて「私のせいでごめんね、ごめんね」と謝った。
私はただ「大丈夫だよ」と笑った。頭一個分以上高い背の彼女は、そうすると泣き止んでくれた。



ねぇ、あなたは馬鹿ね。
舞姫は言った。
あら、お帰りなさい。探したのよ。そう言った私に、寂しそうに微笑んで、「つらい時は言えばいいのよ」と言った。
あら、馬鹿なのはあなたよ。
だってそんな事言ったら、あの子は自分を責めるんだわ。
だから私は笑うの。笑いながら毎日休まず登校するの。
ね、素敵でしょ。
微笑んだ私に、結局はいつも「あなたの好きにするといいわ」と言ってくれた彼女が大好きだった。私はあなたの味方だわ。そう言った彼女に寄り添うと、彼女はいつだって花の香りがした。




「ねぇ、私、舞姫と同じ高校に行こうかな。」
ある日私が言うと、彼女は困ったように笑った。
なに言ってるの、あなたは県立で2番目に偏差値の高い高校に行くんでしょう?
えぇ、そうよ。前はね。今はもういいの。世間体なんかもう知らない、私はあなたと同じ高校に行きたい。
A
判定だったのに?そもそも親が許さないでしょう。
いいのよ、いいの。もう高校にすら行きたくないわ。
そんなやりとりに、また舞姫は笑った。
「頭いいのに。勿体ないわ。」
私は別に良くないわ
「よく言うわ!テスト勉強なんてした事ないくせに」
くすくすくす。彼女は楽しそうに笑った。
あら、私だって1回くらいした事はあるのよ。その時は国語で100点をとったんだから!最近の話よ?
「あら?そうだったの?じゃあ、調子に乗って勉強しなくなったのかしら」
残念、違うわ。絶望したのよ。
「おかしな話ね。何にしたの?」
理科が32点だったのよ
「まぁ、ひどい点。でもこの中学は他の中学よりも難しいって聞くわ。それくらいで絶望なんて、馬鹿馬鹿しいわ。」
親が怒ったのよ。国語の点数なんて見てくれなくて。ただひたすらに理科を怒ったの。父親なんて、お前は本当に俺の子か!なんて。

だから、あぁ、いい点をとっても別になんてことはないんだ。って思ったの。だから勉強はやめたわ。お陰で成績は下がりっぱなし、これじゃ優等生は無理ね。
「ふふ、悲観的。あなたらしいわ。」
くすり。舞姫はこんな私を責めようとも怒ろうともせず、ただ受け入れてくれた。
あぁ、舞姫、舞姫。
彼女に触れると、ひやりと冷たかった。
「じゃあ同じ高校に行きましょう。でも勉強しないと、あなたの大好きな担任の先生が泣いちゃうわよ。」
それもそうだわ。彼は私の為に泣いてくれる、優しくて可哀相な人。
「私は舞姫くらい、彼が好き」
恋愛感情ではないわよ!そう付け足してふふっと笑えば、舞姫もふふっと笑った。





『この偽善者。』
舞姫にそう言われた夢を見た。がばりと起き上がれば、冷や汗をかいていた。
わかってるわ、わかってる。
私は、偽善者だわ。いじめられている彼女に話し掛けて、彼女が私を頼る事に喜んで。私は偽善者なの。心は真っ黒なのよ。
ぼろりぼろり。流れた涙は闇の色だった。



フォルテのような人だと、思った。
何を言われても何をされても毎日学校に来る彼女は。かつてこのクラスのリーダーだった彼女は。
フォルテのように、揺るぎない強い人だと思った。
だけど
「おはよ」
好奇心だった。小さい頃、幼稚園、小学校、いじめられていた私と重なってないと言えば嘘になるけど。私が彼女をシカトする理由も見つからなかったって事もあるけど。
だけど好奇心が一番強かった。
「おはよ」教室に入ってきた彼女に言ったそれは、教室に水を打ったようで、その水は教室ごと凍った。
誰も何も言わぬ教室で、扉の前に立つ彼女は困惑した顔をしていた。
揺らいだ。私はただそう思った。この数ヶ月能面のような顔をしていた彼女の表情が、揺らいだのだ。
そして彼女は笑った。つっと涙を流しながら。震えながら、「おはよ…!」と言った。
あぁ、彼女はフォルテなんかじゃなかった。弱々しく、今にも消えてしまいそうな、ピアニッシモだった。
その時初めて、私は今までの自分を恥ずかしく思って、彼女の側に寄り添った。
何を思ったのだろう、私は。
許して欲しかったのだろうか、罪滅ぼしのつもりか何かだったのだろうか。
その頃私は舞姫に出会った。





「舞姫、私ね、短期留学した時、向こうの男子生徒に「あの子可愛い!」って言われたのよ」
「ふふっなにそれ、自慢?」
「違うわよ。そしたらいつもの先輩が「ノーノー!シーイズマッスル、スメル!」とか言って。海外でもあんたそんな感じなんかいって。ってかとんでもないこと言ったよね!あの人っ!
「目に浮かぶわ。でもそんな彼を好きだったのは誰?」
「むぅ、でもあの人、私をサンドバッグにしか見てないわきっと。物凄い楽しそうに笑うんだから。」
「でも優しいじゃない。いつだって笑いかけてくれるし。生徒会立候補した時は確かに格好よかったわよ!
知ってるわ。剣道してる時なんか凄く格好いいんだから!県大会でも入賞するくらい強いしでもいつもいつも打ち込みとか試合とか私を指名するのよ!鬼なんだから!
「んんまぁ確かにそれはキツいけど話せてよかったじゃない」
……まぁ、ね……
「ふふ、幸せそうね」
「私が好きなのは舞姫だわ!あなたなのよ!
きゅ。縋るように彼女に触れれば、いつも彼女は冷たかった。
でも彼女は私の脱臼した手に触れて、「あなたの手は冷たいわ」と笑った。
ねぇ、舞姫、あなたと私はいつまでも一緒よね?
手をとれば、彼女は手を握ってくれた。





ある日、舞姫はいなくなった。

私は至るところを探した。嫌な思い出しかないトイレや、危機を感じた階段、裏切った学年主任のいる職員室、教室、廊下、溜まり場必死に探したけど、彼女はいなかった。
半ば狂った私に、ある女子が話し掛けた。
あら、あなたは私を捨てた人。
「どうしたの」にこりと微笑めば、彼女は泣いた。
ごめんなさいごめんなさい、怖かったんだ、ごめんなさい。
彼女は私ともう一度友達になりたいと言った。へぇ、男子でも先生でも容赦なく殴っていたあなたにも怖いものがあったのね。今はそんなことどうでも良かった私は、「いいよ」と微笑んだ。彼女は泣き笑った。
「ねぇ、舞姫を知らない?」
そう言った私を彼女は異様なものを見るような目で見た。
まいひめ?誰だそれ?
あなたそれ本気で言ってるの?舞姫は舞姫じゃない。本名は田中智子といったわ。いつも私の隣にいたわ。
そう言った私に、彼女は静かに告げた。
そんなひと、この学校にはいねぇよ?
嘘よ。何を言ってるの?嘘よ嘘よ。
「嘘よ!変なこと言わないで!舞姫はいるわ!確かにいつも私の側にいたわ!!!!
狼狽えた彼女にそう叫び、私は校庭に飛び出た。
青い空、白い雲。そして太陽。山々の緑。いつもと変わりない景色。だけど舞姫はいなかった。




私は叫んだ。舞姫、舞姫どこにいるの!出て来てよ!
怖かった寂しかった寒かったどうしたらいいのか何が起こったのか。わけがわからなくて、ただ虚しくて悲しくて、私は巻き上がる砂に膝をついて、泣いた。
舞姫、舞姫お願い出てきて
わたしをひとりにしないで。

 

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