幼い頃、歩いても歩いてもどこへ行っても、お月様がついてくるのが不思議だった。
いつからなんだろう
そんな疑問を夢のない言葉で打ち消して、気にもしなくなったのは。



雨は、嫌いだ。
屋内にいるにも関わらずじめりじめりとまとわりつき、ざああぼたりざああぼたり勝手にリズムを刻み始める。俺の静寂を打ち壊す。

雨は、嫌いだ。
かちゃり。もうすっかり湯気も消えてしまったコーヒーに手をかけると、カップがソーサーとタッチを交わす。今はその音さえ煩わしい。
ふと、時計に目を向けるといつもなら彼女が来ている時間。
唇に冷たいコーヒーの感覚を感じながら焦れるような感情に眉を寄せる

来ないな」

独り言を呟いてみても独り言。目の前に座る彼女が拾い上げて掬いあげて「そうですね」なんて笑顔で返してきたりしない。耳に心地よい「日常」は、雑音にかき消された。

雨は、嫌いだ。
君が来てくれないから。
きっと彼女の事だから今頃この島に来て初めての雨に感動してあたふたとして必要以上に家畜や畑の様子を見に行っているのだろう。彼女はそんな些細な事にいくつもの感情を見せるから。

片手に開いていた本を机に立て掛けるようにして膝に広げて、もう一度カップを口に運んだ。
あぁ、そうか彼女がこの島に来て最初の雨なのか。なんて改めて思うと、なんだかこの雨も
ぞくっ。微笑みながら流し入れたコーヒーの冷たさに驚いて、背中が椅子からびくりとはねた。

なんて馬鹿なんだろう。なぜ、どうしてこのコーヒーが温かいだなんて思ったんだろう。
どうして彼女が来ないのは雨のせいだと思ったんだろう。
どうして彼女の事なんか考えてしまったんだろう。
どうして一瞬でも雨の事を―…

あぁいつからだろう、いつからだろう。
彼女がこの家を訪ねてきて、彼女がこの家にいるのが日常になって、彼女が笑いかけてくれて彼女と他愛ない話をするのが普通だと思ってコーヒーはいつだって2人で飲むものだなんて勘違いして

馬鹿だな、馬鹿みたいだ。
彼女がここに来るのは全然普通じゃなくて。
彼女が俺に笑いかけてくれるのだって話をしに来てくれるのだって「魔法使いさんコーヒー入りましたよ」なんて笑ってくれるのだって彼女が優しいから
優しい彼女が哀れな俺を放っておけないから
だから優しい彼女の寂しい俺への、同情でしかないのに。

あぁ、何を勘違いしていたんだろう

これだから雨の日は嫌いなんだ。ぽたりぽたりと同じリズムを繰り返して
催眠術のように俺の思考を狂わせて。
雨は、嫌いだ。
ぽたりぽたり
ほら、また一粒。雨が地球を重くした。


ぱたん。電気も付けていない部屋は暗くかげり。
読みづらくなった本をぱたり閉じ、開いた時から殆ど進んでいない位置に栞を挟んだ。


ふぅ。何についたというわけでもないため息を一つついて立ち上がる。
ただ、じっとしていられない感じがしたから。

がちゃん。部屋の物置になっている隅から物をどかすと、埃まみれになった傘が出てきた。
けふんけふんと咳をしてばさりと傘を開いてみる。

穴は、なさそうかな。
使える事を確認してそのまま外へ出た。

びゅう。扉をあければ、強い風が視界を遮る。
あぁ、雨の風だなぁなんて
まだいつもなら太陽が見える時間。といっても今もあの白い雲の向こう、燦々と地を照らしているのだろうが
いくら雲が隠しているとはいえ、こんな時間に。
しかもその上雨の日に。
俺が外に出るなんて明日は雨どころか槍かななんて
いつもなら絶対考えない事を思って一歩外に出た。

ばたん。扉を後ろ手で閉めて前を見れば、ごろごろごろ。白い雲から雷が鳴っていた。

ぴしん。雲に走った稲妻は空に細く鋭い大木を描いた。

あぁ、そうだ、白い雲は危険なんだった。
黒い雲よりも白い雲の方が危険なんて、わかりきっていたのに。

白い雲に、近付いてはいけなかったのに―…
はあ。目を逸らすようにため息をついて頭をかいた。

俯きながら歩いても、並んでいる建物が低いせいで
屋根の上からもだだっ広く開いた隙間からも白い雲が視界に入り、思考を掻き乱す

「雨は嫌いだ」

雨も、白い雲も、大嫌いだ。